日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

あいまいもこ

曖昧模糊という四字熟語がある。読み方はタイトルの通りで、平仮名で書くと少しかわいい。状態や様子がはっきりせず、あやふやでぼんやりしているさまのことを意味してる。今のわたしや、これからのわたしを表すのに、ちょうどいい言葉かもしれない。

f:id:tnzoe3:20191122205347j:image

      

これからどうなりたいだとか、どうありたいかとか。どこまでいけば、自分が満たされるのかだとか。曖昧なまま、もがいてる。

  

それでいて、ずっとなりたい自分との距離はなかなか縮まらなくて、目の前のことにただただ焦りが募るだけ。気が遠くなる。曖昧で、それでいて進んでいるのか止まっているのかさえ分からない自分が嫌で嫌で仕方なくなる。この感情いつまで繰り返すのってくらいエンドレスループしてる。

f:id:tnzoe3:20191122205424j:image

  

そして、ふとしたときに周りが遠くにいっているような気がして不安の渦に埋もれてく。こういう時は、どうしても周りが輝いて見える。自分がやっていることに価値を感じているはずなのに、成果が出ないと「わたしって、何をしてるんだろう」と考えてしまう。

   

それでも答えは見つからなくて、ぬるま湯にいつまでも浸かっているような気持ちになる。中途半端な自分がすごくすごく嫌だった。たぶん、理想の自分が等身大ではなかったんだと思う。だから距離だって全然縮まらない。

   

どこにいても、何をしてても「がんばらなくちゃ」が続いて、どこにいても上手くいかなくて周りに申し訳なさが募ってく。そして、自分の無力さを痛感する瞬間が増えて、しんどくなる。目の前の選択が正しいのかどうかも分からず、理想に近づけているのかすらも分からない。

f:id:tnzoe3:20191122205940j:image

   

でも、今になって思うのは、そういうものなのかもしれないということ。曖昧だからこそ、走り続けるしかないし、やるしかない。グダグダ言っていたって、現状は何も変わらない。

  

「やらないと」とかって口では何とでも言える。だから行動で移すしかない。動くしかない。そうやって進む中で、自分のカタチが見えてくる。先のことなんてわからない。わからないから、今と全力で向き合う。そう割り切れたら、ありのままの自分を受け入れられて楽になった。

f:id:tnzoe3:20191122205626j:image

   

前までは、ふわっとしていることを、ぬるっとしているようにしか思えなかった。だから走るしかなかった。ただただ、止まっているだけの自分に嫌悪感を感じてた。でも、最近は止まるというより休めてると思えるようになった。休みの日に、予定を入れないという予定を入れられるようになった。

    

時間ができたら、ジムに行くようになった。目標があると頑張れる自分と、流れに身を任せることを楽しめる自分と。どちらもいる曖昧さを楽しめるようになった。やるだけの行動をしているから、自分の現状を肯定できるようになった。

   

きっと、白黒はっきりさせようとしていたから、もがいてた。「できる」と「できなくてもなんとかなる」の間の、グレーな状況でもありのままを受け入れられるようになった。頑張らなくても大丈夫だという安心感をバックに頑張り続けるようになってきた。

f:id:tnzoe3:20191122205740j:image

    

ついこの間、長い長い大きな仕事が一旦落ち着いた。先輩たちに褒められて、自分でも前よりもできるようになった実感が持てた。そして次から次に、仕事が増えた。きっともっと忙しくなるけど、「走り続けたい」と思えるわたしがいる限り頑張れそうだと思った。それと同じくらい「なんとなる」と、心の紐を緩められるわたしがいるからそのままでいれた。どちらも、本当の自分なんだと思う。

  

年を重ねるにつれて、自分のご機嫌を取れるようになってきた。「ごきげんでいる」ことが大事なのかもしれない。自信をもつ、というよりも、ずっと。好きな自分でいるだけで、何もしなくてもそれだけでハッピー。

f:id:tnzoe3:20191122205544j:image   

   

もっと人として、こうなりたいっていうのは沢山ある。それなのに今の自分は、まだまだ浅くて弱くて足りないところが多くって仕方ない。だけど、だから、がんばりたいって思う。

   

2019/11/22