日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

メガネを外したら何も見えてなかった。

どんな人に魅力を感じるのか、その人のどこを見て憧れを抱くのか。学生のときにリーダーや副リーダー的ポジションを任されることが多く、必要のない「リーダー概論」という授業をとっていたことがある。

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仕事を愛して、家族を愛して、愛されている人。仕事ばっかりしていて身近にいる人を粗末にしていたり、恋愛に依存して判断軸がパートナーだけになっていたりするような人にはなりたくないと思ってた。

     
誰にでも気さくに関わることのできる人。経済力があるだとか、何かすごい人と繋がっているだとか。そういう世の中では評価される肩書きだけじゃなく「一人の人として」目の前の人と温かく関わる人に憧れた。

 

言行一致している人。やると決めたことは、自分の納得いくまでやり続けることのできる人。口だけの人間は嫌い。

   

表現者。エッセイでも、音楽でも写真でもアートでも感情を露わにして生きている人は誰でもカッコよく見えた。価値観はそれぞれで、感性が誰とでも同じじゃなくてもいいってところも好きだった。


五、六年前に憧れていた大人に、すこしは近付けているんだろうか。ふと、思い返した。近付けているといいな。

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最近は、前よりも感情の波が大人しくなった。悪い意味で、つまらない人間になっている。なりたい自分に近付けていると喜んでいながら、自己満足でしかない自分を俯瞰して見ていた。嫌気がさして「もっと自分を試したい」と思うようになった。

  
友人の言ってくれた「やらなきゃ生きていけない」思いから出来たものと、「やってみたら思いの外評判がよくて」と続けたものでは、全然違うと思う。

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今のわたしは、ある程度のやりたいことはやれている。仕事とプライベートの境界線を浮き彫りにして、自分の中のサイクルで回している。無理のない範囲で、心地よい流れを見つけたような気がしていた。

  
だけど、どこか心の奥の奥にいる自分がスッキリしない表情を浮かべているのは、小学生のころの自分が今の違和感を叫んでいるからだと思う。井の中の蛙なんじゃないかって。

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自信満々で過ごせていたのは、無知だったから。何にでもなれると思っていたのは、周りが見えていないから。あたかも自分が天才かのように思い込んで、勘違い野郎になりさがっているんじゃないか。

   
メガネを外したら、視界がぼやけて何も見えなかった。自分の視力に合わせたレンズで見てる世界は、見やすいのが当然と言われたような気がした。そんな色眼鏡を外せば現実は、ぼやっとして何も見えていない。

   
なりたい自分になれている気がしていたのは、なれそうな自分に近付こうとしたからなんじゃないか。自己満足の世界でしか生きられない。それならたくさん自分を試せばいい、最初から上手くいくわけがないとも思った。

   
外枠ばかりを見て、中身がなかった。見た目だけを気にかけて、味付けを何もしていなかった。「何をしたいの、何を伝えたいの、何が出来るの。」自分に問いかけるたびに、中身の無い人間だと思った。図星だったから、言われたわけでもない「中身の無い人間」というワードを頭の中に浮かべてはショックを受けていた。

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迷っていたって世の中は進んでいる。やれない理由ばっかり拾う自分はダサくて嫌いだ。できるかどうかは、やってから決める。長い目で見れば、きっと「今の出来ない」も「できる」に変わってくはず。ダサくて情けなくて、もがいて苦しんで人間らしく生きる。

   
仕事を愛して、家族を愛して、愛されている人。誰にでも気さくに関わっている人。言行一致している人。表現者。あのとき憧れていた大人には、今でも憧れがある。

  
何をどうしたら「なれたぞ」と確信をもてるかの基準もなければ、きっとその判断軸も感覚でしかないけど。「なりたい」と思う人達だったらどう動くのか重ねて、ひとつひとつ見つけたい。


先月から来月にかけて、沢山の人と関わる機会を作ってもらえた。言われた言葉と、その言葉の背景。その人が見た世界に想像力を働かせて「その人」がどんな人なのか知りたい。

   
広げて絞って重ねて切り取って。自分のテーマを見つけたい。そのためには、まだまだ思考が足りない。見つめよう。

   
2020/07/29