シンプルではいかない世の中なのかもしれない。
ぬるくなったミルクティーの味がしなくなった。気付いたら冷めてしまっていた。美味しいというのが冷めたというだけで同じものとは思えないくらい変わって見えた。
「ごめんなさい」と飲み切らずにお店を出てもいいんだろうけど、冷え切ったそれを飲み干そうとしたのは何故だろう。自分の中でミルクティーという名前がついているものを飲んでいたいだけなのか。自分のことなのに分からないことが多すぎる。
感情をありのままぶつけることがいいと思っていたけれど、いつでもそれが一番いいとは限らない、らしい。当たり前だけど、当たり前じゃなかった。シンプルにいけよって思うし、シンプルに在れよと思っていたけれど、世の中って思っていたより複雑だった。自分の感情に素直であれと思っていたのが、それだけではうまくいかないという当たり前のことを痛感させられた。自分の感情をありのままに伝えていたいと思っていたのは自分自身の甘えで、周りへの配慮なんてゼロに近かったのかもしれない。
好きとか嫌いとか合うとか合わないとか、必ずある。そういうのを抜きにしても離れてしまうのがある。離れたくないし離れることはないだろうと思っていても自然と離れていく。そう思い込んでいただけ、みたいな感じ。
「ああ、なんだそんなもんか」と寂しくも悲しくもなる。そういうときには「離れるということは、そういうこと」と割り切ることだって大切らしい。去る者は追わず来る者は拒まずっていうやつ。流れに身を任せるっていうやつ。どれも誰かに言われた言葉だけど、理解はできても納得するのは、私には、まだできない。
感情なんてなくなれば、うんと楽になるだろうし「去る者は追わず来る者は拒まず」みたいなのが何も考えずにサクッと簡単にできるだろうなと思う。それか自分の感情をコントロールできたら最強だろうなって思う。相手の感情抜きにして自分がどう思うか、それでどう動くのか伝えていくのかが大事だと思っていけど、それだけじゃ何もうまくいかない。うまくいかなかった。
気づいたら冷めてしまっていたミルクティーと同じように、気付いたら関係が崩れいた。気付くのが遅ければ、もとに戻しにくい。色々考えているうちに動けない状況を自分で作り出してしまう。そうなってしまったからには仕方ないと、そのまま放置してもいいのだろうけど、できない。だけど自分でこの状況になることを選んだんだと客観視すると結果何もできずに放置することになる。
相手には相手の考えることがあって、それを全て無視して関係を築いていくのは出来ないのかもしれない。友達も、恋愛も、家族も、全部全部全部。相手あっての自分なのに、自分あっての相手とは決して言えない関係だった。与えられっぱなしで頼りっぱなしでっていう私の甘えの連続。現状を変えないのは現状を変えた時が怖いから。手放す勇気が持てないから。
言葉に出来ない時は叫べばいいし、声にならない時はもがけばいいし、自分で自分を苦しめる必要なんてない。でも、ふとした時にグルグル考えてしまうから止まらない。みたいなことを昔の日記から見つけた時は「何も変わってないんだろうな」と思った。変わりたい変わりたいと思っていても変わったと思えるのはいつになるんだろう。自分の甘えが露呈する。
「思っていたよりも自分が、ちっぽけで惨めだ」なんて思うことはざらにあるし、全然強くなれなくて「ビーストロンガー」とか言い聞かせる。でもなかなか強くなれない。いや、強くなれないんじゃなくて強くなろうとしていない自分。変わらないと変わらないとって思っても変わってる気がしなくて「ああ自分って弱っちい」ってなる。今に始まったことじゃないけれど。寝て起きたら全部ゼロからスタートだってくらいに割り切れると最強だろうな~~。
自分の言葉や行動は、自分で選んでいるということを忘れちゃいけない。あとで後悔するかもしれないけれど、それでいいと自分が自分で決めたならそのまま進むしかない。どっちがいいとか悪いとか、そんな判定みたいなことなんてどうでもよくて、後悔するしないは今分かることじゃない。し、今決めることでもない。でも、どうしたらいいかわからないっていうのが頭の中に付きまとう。
自分の行動や発言によって起きてしまう状況が苦しくて怖い。シンプルに動けなくなる。考えすぎなのか、考えたりないのか。わかんないわかんないわかんない。
いつもそばにいたいってなった話
大切って字に使われている「切」には「せまる」「さしせまる」って意味があって、となると「大切」は「とても、せまる」という意味になる。「いつもそばにいる」「ぴったりと身に付ける」ということから「だいじにする」の意味になったらしい。
豆知識披露〜!とかそういうのではなくて、これを知ったときに図々しいけれど自分にとって大事な人のそばにいつも居ることが出来たらいいなと思った。そしたら「いつでも頼れ」の最大効果を期待できるんだろうな〜って。四六時中一緒にいるのも、まあ極端な話ではあるけれど。
苦しい時って、なかなか人に頼ることが出来ない。苦しいと感じていたタイミングで、近くに頼れる人がいるとかしない限りは頼れない。頼ろうとしていないだけかもしれないけれど。
これまでの私は、誰にも頼れないって嘆くタイミングで「頼れ」と言ってくれる存在がいて、その度に救われてきた。あの人がいたから今の自分がいると思える瞬間が何度もある。
泣きながら本音で話して、ぶつかって、苦しんで、ああやっぱり大好きだなと繰り返して。私はいつも助けてもらってばっかりで、一人では何も出来ない。今度は、大切な人がキツイ時に頼りたいと思ってくれるような存在で在りたい。
何かが出来る訳では無いけど、何かを出来るようになりたいって思ってる。まだまだ、ちっぽけで未熟者で「お前なんかに、何が出来るんだ」と言われたら何も出来ないと答えるしかない。開き直りかもしれないけれど自分に何ができるかすら分かっていない。だけど同時に何か少しくらいは出来るかもしれないと自分に淡い期待を抱きつつ、向き合おうとする。そうしてきた。
正解は無くても、ああした方が良かったよとか、こうしたから苦しかったよとか。キツイ時はどういうときだろうから、ちゃんと湯船に浸かって布団に包まって全力で休めよって言える。優しさも厳しさも、自分なりに伝えようと出来る。
小学生の頃に「何でも話を聞きます」と掲げて全く知らない人でも救えたらと自分の力を過信して相談屋をしたことがある。「片思いの相手に気持ちを伝えられない」とかそういう相談が来るかと思っていたら全く違った。知らない病気の悩みだった。何も力になることが言えなくて無力さばかりが露呈した。
その時に経験していなければ力になれないことを痛感した。これまで経験したことがあれば、実体験をもとに何かしらの言葉を紡ぐことが出来た。全てを知らないからこそ言える言葉があるのかもしれないし、知らない事があるのは当たり前かもしれない。でも、でも、と納得していない自分がいる。
「理解出来るわけがない。」とか「分かったような口を聞くな。」と思うかもしれない。突き放されるかもしれない。何も知らない人に知ったような口を叩かれると「お前なんかに何が分かる」と憤怒したくなるのもわかる。
こういう時に仮に私がスーパーマンだったら「何でも言ってみな。ぜーんぶ解決するぞ。任せろ。」ぐらいは言えるのかもしれない。とかあり得ない事を考えながら、現実と比べて落胆する。ないものねだり。
私は変わらず私で、どんなに嘆いたとしてもやっぱり出来ることは限られている。何も出来ないときすらある。寧ろそれが、ほとんどかもしれない。
でも、だからといって現実をすんなり受け入れられるほど大人では無くて、往生際が悪い。悔しいけど、物凄くよわっちい。きっとこれは自己満足の世界で、そういう世界ですら満足出来ない自分の世界を作り上げていて、最後に「結局何がしたかったんだろう」ってなる。
経験しないと理解できなかったり否定的に見てしまう人って多いと思う。聞かないのは聞けない、聞きたくない、聞く勇気がないからなのか。自分の中でも分からなくなる。分からないなりに、知りたいと思うのは苦しめることになるかもしれない。経験が浅い私には、そうすることしかできないのかな、とも思う。
別に経験することが全てとは言わないけど、経験値って大きい。言葉に重みがある。学びがあるかどうかでも、変わるんだろうな。考えることも大切だけど、考えるだけじゃ何も変わらない。動かずにはいられない、そんな風に出来るかどうかが重要な気がする。
全ての気持ちを理解するなんてことは出来ないのかもしれない。だけど全部を受け入れられるくらいの力量が欲しい。まだまだ成長過程、まだまだ経験するフェーズなんだろうなって改めて。
そう考えると色んな人からママとか呼ばれている人って凄いよな。そういう人になりたいな。誰もが相談に来たくなるような存在。まだ力不足だ。
2016/12/17
殴り書き。
褒められる言葉が素直に受け取れなくなりそうになった。
これまでだって経験したことがある、この感じ。言葉を受けて嬉しいと思う反面、言葉の裏をかいてかいてかいて、本当はそう思っていないんじゃないかとかきっと上手く利用しようとしているだけだ、とか余計な思考が増えてくる。
別に、目の前にいる人を自分の目で見て周りに惑わされずにすればいいし、他の人のことなんて考えなくても、自分がそうだと思ったらそうだと言い切ればいいと強く思っていた。今もそう思っている。
でもそれが本当の正解なのかどうか正直分からないけど、今はそうするしかないと自分の中で暗示をかけるように自分に訴えかけている。
そしたら今日、その場にいない子を褒めている二人組がいた。「あの子、感じがいいよね。素直だし気がきくし。」と話していた。本人のいない場での会話ほど日頃から思っている本音が聞ける気がする。褒め言葉の時は特に聞いていて心地が良い。
そう思った矢先、話は続いた。
「とかなんとか、まあ言っとけば、あの人は喜ぶでしょ。海外で稼げるとかテキトーに興味がありそうな話を持っていけば食いつくし、あとは上手い具合に調整すればいいだけだし、そこまでいけば簡単。」
気持ちが悪い。気持ちが悪い。本当に気持ちが悪い。人間じゃないように思えた。そんなんでいいのかって、でもそれが普通なのかもしれないって考えれば考える程、答えが出なかった。
話を合わせようとしている感じ。
だまそうとしている感じ
取り込もうとしている感じ
逃さないように囲いをかけている感じ
「こうやって人は人を上手いように取り込むのか。」と不快感しか無かった。空気が無理だった。
もしかしたら私も無意識のうちに、そういうやり方をして来たのかもしれない。私自身、本当に井の中の蛙野郎で自分のことも周りの事も見えていなさすぎるけど、「人と人の関係って所詮そんなもんか」と、ただ悲しかった。
何を考えているのかとか、何をしているのかわからないってことを気にし始めたら止まらなくなった。今回みたいに、目の前のことだけが全てじゃないことに気づかされる度に、素直に受け入れ入れることができなくなる。
何と言ったらいいのかわからないけど、こういう人間の裏みたいなところを見ることが増えれば増えるほど、苦しくなる。悲しくなる。例えそれが裏ばっかりだとしてもいい、目の前の現実が私にとっての全てだと思っている自分と衝突する。葛藤というやつかな。
何かもっと、真っ直ぐ相手のことを受け入れて、自分のこともちゃんと伝えてっていう直接正面衝突って出来ないのかなって思う。なんでこう、裏工作ばっかりするんかな。なぜ世の中の人は、そんなに複雑にしたがるのか。
自分の感情くらいは直接伝えて欲しいし、素直でありたい。
そうしないと保てないような、その程度の関係なら、それでいいのかもしれない。でも私は関わりが深い相手であればあるほど単純で在りたい。じゃないと絶対「そんなもんか」と落胆する。悲しいでしょ、普通に。シンプルにいけよって思うし、シンプルに在れよと思う。
なんか、最近複雑なのが多くて多くてついていけない。ついて行きたくない。
分からないから発言しないとか、相手に何を言っても変わらないとか思って勝手に呆れてるとかさ、そういうの何も言わずに伝わるわけがないじゃんって思う。伝わらないとか嘆く方がおかしい。勝手に離れて解決するもんか。ぶつかれよ、人間だろ。人間臭くあれよ。
何も言わずに察しろよとか、図々しいにも程がある。少女漫画によく出てくる女子かよって思う。
そりゃ伝えてきたつもりなのかもしれないし、伝えることが容易ではないとは思うけど、相手に伝わっていなければ伝えたとは言えない。それで相手が一方的に悪いみたいな言い方するのはおかしい。相手に落ち度はあるのかもしれないけれど、きっと同じように自分にだって原因がある。
直接会って、思ってる事しっかり伝えて、同じくらい相手の考えもちゃんと聞く。心内だけで思ってても伝わらない。自分だけ被害者面して何がしたい。どっちも思ってることあるに決まってる。
相手がこう考えるだろうからこう言おうとか、いややっぱり言わんどこうとか相手のことを考慮するのは勿論大切なことだけど、本当に仲良いならそんなん色々考えずに関わりたい。
モヤモヤと考えるの疲れた。ばーーっと、考えずに一気に書いたのにまだスッキリしないのは書ききれていないのか。
2016/12/04
当たり前じゃない当たり前を大切にしたい
最近は楽しいが連続していた。
好きな人に好きなタイミングで会いに行くことが出来て幸せな時間を過ごすことが出来たからだと思う。
楽しいが連続すると、余韻が凄い。写真を何度も振り返ったり連絡したりが繰り返される。楽しかったなと思う瞬間すら楽しい。プラスの連鎖、しかもエンドレス。エブリデイハッピーの秘訣。
今月は本当に色んなことがあった。
徒歩で十一時間かけて実家に帰ったり、クレジットカード無くして財布無くしてって凹んだり。ヒッチハイクで鹿児島に行って荷物無くしながら野宿したり、名古屋に行って鍋して飛行機逃したり、高知に行ってヒッチハイクで乗せてくれた人達とお酒交わしたり、長野に親孝行がてら旅行しに行ったり。
まあ、色んなことがあった。いつもの私の生活からすると怒涛の一カ月だった。写真だけでも載せきれない。色んなことがあったというか、色んなところに行ったという方が妥当なのかもしれない。
(地元のおばちゃんって色んな人に言われた写真だけど、これはきっと似合ってる証拠のような気がして好きな写真になった。)
昨日は久しぶりに友達とお家ごはんをして「沢山ご飯出来たから食べに来ん?」とか言って友達を誘ってボジョレーのロゼを片手に映画観ながらホームパーティ気分味わって、前からしたいって思ってたことができて嬉しかった。
それだけでも幸せだったのにその日の夜は大好きな人と電話出来ちゃったりなんかして、まあ〜〜顔が変形するレベルで幸せだったのです。ただ電話したっていうだけなんだけど、不思議とハッピーを連呼していた。
嬉しかったことを言葉にした途端に、幸せが倍以上に大きくなるのでハッピーハッピー言いながら、またそのハッピーが増して行くその瞬間がまた幸せで。こんなにも幸せでいいのかと不安になるくらいに嬉しくなっていった。エブリデイハッピーがエブリタイムハッピーになる瞬間です。
少し話が変わって今日、アルバイト先の外国人とワインを囲みながら四時間半飲みながら話しました。これまで特別仲が良かった訳ではなくて、「タイミングがあった」というただそれだけで話すことになった。
お客さんに誰からも好かれる、バイトリーダー。正直浅い関わり方しかした事がなかった。日本人の奥さんがいて、子供を本当に愛している人。私が海外にいたら、そんなに仲良くできないんだろうなって思うくらいコミュニケーション能力が高い。いつも笑ってて、私も笑顔をもらうくらい。
出勤して二十分くらいが経った頃、お客さんも居なくて「もう上がる?どうする?」と聞かれた私は「あと少しだけ。」と言ってワイングラスを片手にボトルをワインケースから取り出した。眠い中出勤した、もう少しだけ働かせてもらいたい、ただそれだけ。そしたらまあ、お酒のお陰様なのか、仲良くなって沢山教えてくれた。
話した後「やっぱり、いつも笑ってる人は強いんだな」って思った。自分の見ている世界が狭いんだと、甘え過ぎているんだと実感させられた。ちっぽけだと思った。
ボトルを何本開けても、深い酔いに潰れることは出来無かった。それくらい話に夢中だった。
“今、5分かけて話したことは、いったい何時間かけて考えたことなのか? ”
普通に話している会話の内容ですら、これまでの相手が歩んできた人生を少しだけ教えてもらっているような、見えていなかった姿を少しだけ垣間見れている気がした。話してくれるって嬉しいことだとも思った。
その人は、決して楽な道を生きてきた訳では無くて、死を何度も経験していたり、私が「お腹減った」とか自分のことしか考えていなかった時には戦場に足を運んで「来世の子供達の為に」と今を必死で生きていて。
戦争が終わった後も、平坦な人生では無くて日本に来た後も「逃げたんじゃないか」という自分の中での負い目に感じる部分がずっとずっと頭の中にあって、それでも頑張るしか無くて生きる為に必死でいて。人の優しさや残酷さを同時に経験して、それでも「生きていること」がどれだけ有り難いことなのかを忘れずにきていて。
なんかもう本当に話を聞きながら尊敬しかなかった。そういった今までの経験があるからこそ、受け入れることができている今があって。知らないと、知ろうとしないと見えない世界は多い。理解しようともせずに否定する人は多い気がする。
私は話を聞きながら、終始「凄いな」の一言しか反応を返すことしか出来なかった。分かったような口調で「そうですよね」と言い切るには、自分がとても浅はかで、何も分かっていなくて。知ったかぶりをするだけになってしまいたくはなくて、やっぱり「凄いな」の一言しか発することが出来なかった。私はなんてちっぽけなんだと、何度も何度も自分に訴えかけた。
当たり前は当たり前じゃない。そう分かっているはずなのに分かりきれていない。自分が思っている以上に見えていないことが多い。知らないことが多い。分かった気でいることばかり。
暑い日は暑い日の、寒い日は寒い日の、晴れの日は晴れの日の、雨の日は雨の日の。それぞれの楽しみ方がある。
美味しいご飯が食べることができる。
電気のある部屋で、自分の好きなように過ごせる。
お風呂に入って汗を流すことが出来る。
勉強したいときに学ぶ場所がある。道具がある。
働きたいと思ったら働かせてもらうことができる。
寒い中、毛布に包まって寝ることができる。
ありがとうを伝えたい相手に伝えることができる。
会いたいと思う相手に会いに行ける。
頼りたいと思える存在がいる。支えたいと思う相手がいる。
当たり前になりがちなことを、しっかり感謝して受け止めること。
当たり前のことを、当たり前じゃないって考えれれば、自分って特別なんだって気付かされる。そしたら、特別なことをしてくれている周りの人に物に事に感謝できる。みんながそういう気持ちになることができたら感謝の連鎖が広がっていく。
何度も、この言葉がグルグルと巡る。第二の家族のような存在のヒロくんからのメッセージ。私が実家と同じくらい何度も高知県に帰る理由は、こういう素敵な考え方を教えてくれる存在がいるから。
当たり前は当たり前じゃない。
何度かこういうことをこれまで書いてきたし感じてきたけど、忘れたくなくて記録する。
2016/11/30
グルグルグルグルグルコサミン
最近頭の中でグルグルグルグルグルコサミンのCM並みにグルグルと離れてくれなかったモヤモヤのお話。長いよ、長編だよ。
人生っておかしなもんだね。誰かとすごく親しくなったかと思うとなんの理由もないのにだんだん離れていったりするみたい。
スヌーピーの言葉でこんな言葉があった。確かに、おかしなもんだ、と私も共感をしていた。
これまでの関係、若しくは今の関係が、今後も同じように続いていたいというのは甘えなのかもしれない。流れている時間の感覚も違えば、環境も変わってくる。話題だって次第に噛み合わなくなるのかもしれない。
社会に出て、今までとは違う環境にそれぞれの生活に各々が馴染むようになったら、きっと休みが出来ても『数少ない貴重な休みの日を誰とどう過ごすのか』っていうので、どうしても会う人会える人が限られてくるのかもしれない。
でも、それが嫌だと大声で訴えかける自分がいる。卒業を目前にして、帰るよと手を引く親を横目に嫌だ嫌だと駄々をこねる幼稚園児に成り下がっているのかもしれない。
知らない間に、周りの人間関係が変わっていることがある。それは、上に書いたスヌーピーの言葉のように「理由なく」離れたのかもしれないし、「理由があって」離れたのかもしれない。
あるいは、表面上は良好そうな関係でも上部でしか関わっていなかったり実はギスギス、なんてときだってあるのかもしれない。
ついこの間なんかは結婚指輪をしていても「奥さんはいるけど、僕の中では離婚しているんだよね」と会社の上司に笑いながら話す人だっていた。ずっと憧れていてキラキラしていた結婚指輪が、すさんでいるように見えたりもした。
そういう意味では「何も知らない」というのは、幸福なのかもしれないとも思う。何も知らなければ、自分の考え一つでいくらだって突き進める。自分の考えが一番だ、とでも言うかのように周りなんて御構い無しに。
でもそれでいいのか、それで満足するのか、と聞かれたらそうでは無い。所詮、自己満足の人生なのかもしれないけれど、「周りを見えていない、主観でしかない」と感じた瞬間、自分のことも周りのことも冷めた目で見てしまう。この判断すらも主観なのかもしれないけれど。
そういった過去があったから、今こういう見方を意識するようになった。自分の主観だけじゃ駄目だと気付くような経験をしたから「自分がこうだった、自分がこうだから」といって周りに同じことを求めるのは押し付けである、と思えるようになった。選択肢を与えても、囲うと途端にそれはエゴになる、と。
全く理解できない考え方と出会ったとしても、その考え方には同じように「これまで」があった上で構築されていて、他人が自分と違うのは当たり前であると視点が増えた。
自分と違う考え方に対して否定的だった私も、理解しよう理解しようとすればするほど知らなかったモノの見方とか捉え方とかに興味が湧いて、今よりずっと世界が開けてくるんじゃないかとワクワクすらするようになった。
やっぱり「視点が増えると見え方が変わってくる」というのは本当に感慨深いなと何度も何度も感じた。普段使っている地下鉄も、数百ページある企画書を一気読みしたら「こんなにも思いを込められた場所」として新たな見え方ができた。今までとは違う眼差しで色やデザインを見るようになったりして見え方がまるで違った。見え方が違うと価値観が変わる。見えない世界が見える瞬間が物凄く好き。
そんなエブリデーハッピー!な私に「どうして、そんなに人を嫌いにならないのか」と仲の良い友達から聞かれたことがある。それは、私が「嬉しい大好きラブ幸せ」が口癖になりつつあるからかもしれない。聞かれたときは、驚いた。
理解できない人だっている。合わない人だっている。だからと言って、それらが嫌いになる理由にはならない。自分と考え方が似ていれば、どこか「同じ」ところがあるんだろうし、理解できないには何かしらの「違う」ところがあるんだと思うからだ。それを追求するのが凄く好き。嫌だと思えば嫌だと言うし、好きだと思えば好きと伝える。小学生でもできることを今の歳になって出来なくなるなんて、おかしい。
そして基本的に、好きになった人に対して嫌いにはならない。ああどうしてそんなに素敵なのかと問い続けていたいくらいに大好きになる。一言で言えばゾッコン。好きの度合いは違うかもしれないけれど。
もっと言えば俗に言う「飽きた」とか「冷めた」とかいう感情に関しては本当に理解に苦しむ。(これが十人十色というものなのかな。)
そんなことを考えていた夜に「誰にだって裏はあるものだよ。」と電話口で言われて“ ああ、私が見てきたのは、結局自分に都合の良いように見ていただけであって本質的な部分には携われていないのか ”とガックリ肩を落とした日がある。
そもそも何が表なのか、裏なのかっていうのは他人には分かり得ないものなのではないのか。見えない或いは見せていないだけで全部表なんじゃないか。一個人に任せられるものなのか。
考えれば考える程、グルグルグルグル分からなくなっていった。
とは言え、人が大好きで人に興味があるっていうのが私であって。考え出したらキリがないからグルグルなって分からなくなったけど、私は押し付けだとしても相手がどう思おうが、気持ちを伝えるのは変わらない。そこまで考える余裕なんて私にはきっと無い。
例え、裏と言われる面を見せられようが隠されようが、私にはそれが裏か表かなんて全く関係無い。じゃあもう今後、好きが小さくなろうが大きくなろうが、変わらず私の中に好きは存在していて、ゼロにならないのなら好きを伝え続けたらいいのではないかという結論で。
誰しも良いところ悪いところがあって、悪いところばかりに目がいけば、嫌いが積み重なるけれど、そのときに少しでも好きを見つけることができたら好きが積み重なってどんどん大きくなるんじゃないかなって思う。
何を言いたいのか分からなくなっちゃったけど、私も主観で生きてるんだなということだけは書いていて分かった。
まあ、人生の主人公は自分自身なのだからいっか。とかいう絶賛ポエミーな終わり方で終わり。
2016/10/26
「大好き」と言い訳して、目を背けていた話
最近というには少し遠すぎるくらいの時期に、「辞める」という決断をしました。決めて断つ、断つと決める。色んな捉え方がある「決断」をした。もう、お手上げだった。
弱さを残すことも、強さなのかもしれないと思って記録する。やっと気持ちの整理ができたのかもしれない。ほんの少し前の話。
「青春だな~~~」っていうのが口癖になるくらい毎日が充実してた。充実というより「青春だな~~」の一言で目の前にある苦しさを誤魔化してたのかもしれない。友達を目の前に、いつのまにか所構わず泣きじゃくっていた。
毎日毎日見えない何かに追われていて、弱い自分を押し殺そうとしていた。苦しくなる度に自分がやらなきゃ誰がやるのかって動いた。「甘えるな、迷惑をかけることになる」と言い聞かせて向き合おうとした。任されたからこそ、その期待に全力で応えたいと思っていた。
でも「もう動けない」が正直なところだった。ある意味、動けないと自分で決めつけていたのかもしれない。もう、自分に余裕がなさ過ぎてそれすらも分からなかった。弱い、弱い、弱い。
自分を見失いそうになる、というのはこういう感覚かって思った。どの自分が本当の自分なのか検討もつかなかったし、何が自分にとって一番大切なのかも分からなかった。向き合い方が分からないというより、向き合う時間を作ろうとしていなかった。向き合った先に、光がさしてくるようには到底思えなかった。
その時は「曖昧だから苦しくなっていて、ちゃんと向き合えていないから苦しくなるんだ」と言い聞かせていたけど、今はなんとなく違ったんじゃないかと思う。
きっと、「人が大好き」という言い訳が、現実から目を背けさせていて。関わり方とか優先順位とかを上手くつけることができず、自分を無視していたと今ならわかる。
本当に関わった人みんながみんなが大好きで、ずっとずっと大切にしていきたいと思ったのは事実だった。だからこそ出会ってくれて「ありがとう」っていうのが凄く大きくて、それを全力で返したいと思っていた。
人に恵まれているってよく言うけど本当にそうだと思ってたし、人に恵まれていると感じれば感じるほど、感謝の気持ちを込めて自分も動いていきたかった。
「出会った分だけ人に信頼されるくらいあれ」って自分の頭の中で何度も繰り返され、同時に自分が全く賢くもないし要領の悪さが露呈した。
結果として「全て中途半端」だけが残った。
皆のことが大好きだったし、これ以上にないくらいのキツいこの壁を乗り越えたら何か、自分が成長していく実感を持つことができそうだった。達成したあとには理想的な自分にグッと近づけるとも思ってた。それも、ものすごいスピードで。
でも、乗り越えられる余裕がなかった。お手上げだった。理想の自分とはかけ離れている自分だけが目の前にいた。
「苦しゅうないぞ」と誰かに言ってほしかった。色んなことに取り組んでいて、それだけの視野が広がる感覚も好きだったし、何でもやってる自分というのに誇りを持っていた。それが逆に変なプライドを持たせて、誰かに頼るっていうのがなかなか出来なかった。
〝なりたい自分”が少し先にいる代わりに、目の前には〝なれない自分”がいて「ああ、どうしてこんなにも容量が悪いのか」と落胆の毎日で。すみませんすみませんばっかりで。
自分が小さく小さく見えた。先にいる自分は大きすぎていて、目の前にいる自分は想像以上にちっぽけだった。
自分がリーダー的立場に立つことが今まで多かったせいもあり、「仲間が辞める選択をする」という苦しさを知っていた。
知っているくせに。任された立場があるにも関わらず。立場のある人間が辞めることがどれくらい周りに影響があるのか知っていながら。理由は幾つかあるとはいえ、「辞める」選択をするということは余りにも無責任で自分勝手な決断だとも思った。
関係が無くなれば、次第に存在も薄くなる。
会わなくなって、最初から無かったことになる。でも気まずさだけは残って、、、っていうのが途轍もなく嫌だった。嫌われることが怖いというより「疎遠になる」というのが怖かった。
自分の中で葛藤が何度も何度もあって、無い頭を自分なりに使って、ずっとずっと考えた。決断って苦しいなと毎日感じてた。
そのとき、救ってくれた言葉。
“自分で自分をどこまで幸せにできるか、ということが、その人の価値だ。その価値というのは、自分で評価すれば良い。
他者を評価するときにも、その人と自分の関係で見れば良い。自分にとって良い人だと感じれば、それは良い人だ。尊敬できる人、好きな人、一緒にいて楽しい人、話をしたい人、などいろいろな価値があるはず。
自分にとって得るものがあれば、その人の価値がそれで測れる。逆に、そういう関係でなければ、価値がない人になる。 だからといって、その人を否定したり、非難するのは間違いだ。だいいち、そんな場合には、関係を結ぶ必要がない。無理に悪い関係を築く方がおかしい。非難したり、否定したりする以前に、遠ざかれば済む話である。”
なんだか心がスッと楽になった瞬間だった。
「辞める」という決断をしてから約一か月が経った今日、初めてメンバーの人とご飯に行った。
会ったら会ったで、早速「最近どう?順調?」と状況を知りたがるし。というか別に状況を聞かなくても最近何があったかなんて無意識に把握していたし。何かある度に「きっと裏ではこういう動きがあってるんだろうな」とか勝手に憶測していたし。少し離れたところから見守るお婆ちゃんのような感覚だった。
久しぶりに会って、私はみんなの事がなんだかんだ大好きなんだなと改めて感じた。すごくすごく勿体無いことをしたのかもしれないけれど、あの決断は間違っていなかったと思える今があるから良かった。
自分で自分をどこまで幸せにできるのか。
今は最高に自分を幸せにできていると、胸張って言うことができるような毎日を送れている。
エブリデーハッピー
2016/09/26
なつやすみのおもいで。
久しぶりに帰った一人暮らしの家にあるカレンダーは七月のままで、当時は今年の夏がどんな夏休みになるかドキドキしていたなと懐かしみながら「あーもう九月」ってなったタイミングで久しぶりに更新。
ただただ大好きで楽しかった夏休みを記録に残しておきたい。ザ・自己満足の世界〜〜〜。
八月に入って、大学のゼミの納会と登山。「ありがとう、本当に大好き」と誰もいない電話口で寝言が出るくらい疲れてた。寝不足のまま登る井原山は、最後まで登り切ることが出来ずに終了で、次の登山は最後まで登り切ろうって意気込んで帰りに焼肉食べた。相変わらずゼミ長は絶好調だった。
最寄駅まで戻ったらその日のうちに大好きなスターフライヤーに乗って羽田空港、そしてムーンライト信州っていうイケてる新幹線に乗って山梨へ。
二泊三日の全国合宿。満天の空に億千の星ってこういうことかってくらいに星が綺麗で空気が綺麗で心まで綺麗になった。温泉で出会ったおばちゃんから果物を貰ったり通りすがりのおじちゃんから突然話しかけられたり、田舎って良いなと田舎育ちの私でも感じることができた。食べ物全てが美味しかったし、人が暖かくて火傷しそうだった。
走って笑って泣いた山梨での全国合宿が終わってから東京に移動。大好きな人、心から尊敬している人たちに会いに行って、フェスのお手伝い。大好きな人、心から尊敬している人に正直会うのすら緊張するんだけど、会いに行って良かった。こんな人になりたいって強く思った。「すげえわ、やっぱり。」ばっかり。
美味しいとお洒落と刺激が詰まった東京滞在が終わったら家族と最後のお盆を楽しんで、バタバタ高知へ。いやさ、この高知が凄かったの。余韻から離れられない。うまく言葉に出来なくて苦しいレベル。でも残したくて長々と書いてる。とにかく最高だったの。
それが 【 香取神社の夏祭り 】
子供達を笑顔にするプロジェクトで、高知の香南市っていうところの香取夏祭りのボランティアに行った。この言ってしまえば地元の小さなお祭りの成功の為に小学生から大人の人まで、幅広い年齢層の人たちが全国から一斉に集まって数日間かけてゼロからお祭りを作り上げるっていう。
このプロジェクトに誘ってくれたのが、2分くらいしか会ったことがない東京の人だったし「友達誰もいないので頼りにしています」と伝えたら「大丈夫」と返されて更に不安になるし、交通手段なくて知らない人と車で行くことになって家族から心配されまくって不安のオンパレードだった。
まず全く知らない土地に、知らない人と駅で待ち合わせして車で半日以上かけて向かった。ヒッチハイクならまだしも、ずっと同じ初めましての人。会話もままならないし柄にもなく人見知り発揮してて「これから数週間どうしよう」が何度も頭の中に浮かんでた。
山奥に着くと思ったら、恐竜たちが待ち構えている旅館の目の前で車が止まって。到着したらしたで今度は「きずなと散歩行こうか」と言われるがまま、その場を離れる。誰かと思ったらゴールデンレトリバーと呼ばれる雑種の犬だった。
とか一つ一つ書いていたらきっと切りがないので、またいつもの感じで書いていこう。いや〜〜本当に毎日が濃くて楽しくて最高だった。
楽しいだけじゃなくて学びの連続、気付きの連続、自分と向き合う時間の連続、そして感謝の連鎖だった。高知を離れても忘れられない存在が沢山出来た。(というか、離れたくなくて毎日電話している)
今回のお祭りのテーマが「感謝」だったんだけど、感謝されることにすら感謝している人たちが沢山いて。
感謝することが「当たり前」と認識されがちな事に目を向けるキッカケになる。感謝することで、目の前にある物や人や出来事の見えないところまで感じることができる。そして、感謝されるっていう事自体も、自分の何気無い行動や発言に気付いてくれたってこと。それを言葉にして伝えてくれているってこと。
感謝ってよく聞く言葉になってきてはいるけど、改めて「ありがとう」の言葉は凄いなって思った。感謝される人で在りたいし、感謝されることに感謝できるような人で在りたいとも思った。感謝の連鎖ほど、心地の良いものはないな、絶対。って言い切れるくらい。
そして自分との付き合い方も下手くそだなってこの高知で自分でも何度も何度も感じた。休めばいいのに休もうとしない自分が悪いんじゃんって呆れるときがこれまでも何度かあったんだけど、それを改めて言葉にして教えてくれた仲間が出来た。優しさだけじゃない厳しさもくれて、大好きじゃ言い表せられないくらい大切な存在ができた。
色んな場所から、様々な手段で、この場所に来ていて話せば話すほどみんなが魅力的で。なんか、肩書きを持っているとかいう話じゃなくて人として素敵な人ばかりだったから学ばせてもらってばっかりだった。当たり前じゃないんだよね、全部、全部全部。
絶対もう一度会って、ありがとうってちゃんと伝えたいと思ったし私と知り合えて良かったって相手にも思ってもらえるくらいの存在になりたいな〜〜って思った。
時間がゆっくりのようで、あっという間に過ぎていて、帰ってからも余韻っていう意地悪なやつが、中々離れてくれなくって、そしたら私も離れようとしなくなってきて困ってる。
ふとした時に、楽しかったやりとりを見返しちゃったりなんかして。そしたら好きな気持ちがどんどん大きくなっちゃったりするから、もう表現できんくらいの幸せで胸がいっぱいになる。とくに、あのロング缶の淡麗が忘れられない。
本当にこの夏は常に笑ってた。ずっと笑顔で「幸せそうな顔してんな〜〜」って何度も何度も言われるくらい。まさにエブリデーハッピーだった。福笑いの新しい顔になれそう。と思っていたらなってた。
おわり
2016/09/04