特別と現実と。
特別を感じると、ほとんどの人は嬉しい、幸せだと感じる。私は周囲より、人一倍幸せを噛み締めようとしているのかもしれない。
見知らぬ人が浴衣を着て花火大会の待ち合わせをしていたり、通りすがりの人が美味しかったとお洒落なお店を出ていたりするのを見るだけで幸せな気持ちになる。自分を自分で幸せにできる、と人から言われたことすらある。
人より幸せを感じる場面は多い。もしくは多くしようと無意識のうちにしているのかもしれない。そして、特別って響きが凄くすき。でも難しいなとも思う。
例えば「会いたい」のたった一言でさえ、特別な相手に使うときと、純粋にただ会いたいっていうだけの相手のときと様々である。
様々なくせに、その隠れた感情は「会いたい」の同じ四文字に集約されているから、なんだかなとも思う。無情だな、と。
相手にとって何が特別かというのは、きっとその人の感じ方次第であり、そういう意味では人任せとも言える。
同時に、その特別かどうかの基準ですらも、「普通」が自分の尺度でしかないので、世間一般で言えば不確かな判断とも言える。
つまりは全て特別にも、つまらないものにもなる。
とはいえ捉え方次第とは言いつつも、事実や現実とのギャップへの耐性も大切なんだろうな。
「特別だ」「私は特別な存在なんだ」と喜んだとしても自分の中にある自分が普通だから難しいなとも感じる。
幸せだと胸が高鳴る瞬間を何度も何度も感じたいのであれば自分を特別と感じたらいいのかもしれない。
その時に「思いの外、普通だった」ときに自分がどう感じられるのか。
2016/08/13 @長崎
自分の中の自分と自分が衝突した
自分の中で自分と自分が衝突して、自分から自分を取り除きたいような感覚が「ブワァッ」とあふれ出してきた。
何かを中途半端にして迷惑をかけていたり人との約束を平気で破ったりするような人が心底嫌いで、相手の時間を使っているっていう認識がない利己的な生き方をする人が理解できない。色んな都合があるというのは分かるけど、それ以前の話で。できるできないとかじゃなくて、そこに責任感はあるのかなと思ってしまう。狭い人間だな、と。
だから「知行合一」とか「有言実行」とかっていう「言っていることとやっていることが精通している」ような人に強い憧れがある。そういう人こそ、誰にでも通用するスーパー凄い人じゃんってなるし、キラキラ輝いてみえる。勿論これは自分がそれ相応のことをした上で発言するのが前提になるけども。だって、相手の立場から考えたら「自分のこと棚に上げて何もしていない人に言われたくない」とか思うし、そんな残念な人にはなりたくない。
っていうようなことを思っていた22歳のわたしがいたんだけど、それが最近取り組んでいることが多くなって何がなんだか分からなくなっていた。というか、整理できていないだけだった。その結果、潰れそうになった。
誰かに「やれ」と強制されていることでもないし、「やってください」とお願いされているわけでもない。だけど自分に対して「自分で頑張るって決めたなら弱音吐かずに最後までやり抜けよ」って思うし、「やりたくないなら最初からするな」ってなる。何度も何度も頭の中で繰り返されて、グルグルと感情をかき回される。
この考え方があるから「がんばれる」し同時に「きつく」もなる。自分の中では、仕事をこなして人との約束は必ず守って信頼関係も築けて・・・っていう理想の自分に近づこうとしていた。ものすごいスピードで。そうしているうちに、「弱い自分」と離れていく感覚にもなった。
弱い自分が嫌いなはずなのに、弱い自分が消えると苦しくなった。とか思っていたら「すみません」を言わなきゃいけない瞬間が何度もやってきて、もうなんか全部投げ出したくなった。
まさに、自暴自棄って感じ。無責任な人が大嫌いなはずなのに、無責任になりそうな、自分がそこにはいて。そんな自分から離れたくなった。本当の自分が分からない、そんな感覚。
でも「辞める」と決めた途端にやってくる状況、自分が相手にもたらす影響を考えたら簡単に投げ出すという判断は出来なかった。今までの思いだってあるし、ここで踏ん張れば何か変わるかもしれないとか思ってた。でももう頑張るエネルギーもなかった。
そんな「モヤモヤした自分との付き合い方分からないです」なタイミングで今日、大好きなライターである「佐々木ののか」さんに会えた。ののかさんは、私が失恋して映画を見まくる毎日から自然と「結婚」という言葉がキーワードになって、そのときにたまたま見つけた記事のフリーライターさん。
書く文章が全て好きで、時間があってもなくても時間を作って「わざわざ」でも読みたい、そんな言葉に物凄くパワーのある人。初めて会ったのは今年の誕生日の次の日で。あの、大好きな憧れの「ののかさん」が目の前にいる、話せる、毎秒興奮状態だった。なんだか懐かしいな。
弱い自分から抜け出したくて、でも弱い自分も自分で、そこから離れたら戻って来れないような気がした。話しているうちに自分の中でも頭の中を整理することができたし、それと同時に「ののかさんの言葉」をもらって世界がグーンと広く、そして見るべきものがはっきりしてきて楽になった。うおおおおって感情が高ぶって、生き方とか全部全部すげえってなった。言葉のない世界に行けたら今の自分の感情を百パーセント表現できるのかなと思うと悲しいくらい。
話すことで楽になる、整理できるようになる。そう感じた。自分にとっても相手にとっても有意義な時間だったらいいよな~と思う。だから話すのも聞くのも好きだし、その過程を終えたあとに出てくる「書く」とか「読む」とかいうのも大好きなんだろうなって思う。
本当に幸せだなって思う瞬間を整理しようとしたら三時間かかった。
2016/08/08 @神楽坂
混乱の後の無情
自分の中での葛藤が何度もある。
葛藤を繰り返して、どうしていけばいいのか結局何も分からない。気持ちを理解して配慮すべきなのに、どうしても自分の我儘が出てきて乗り越えることができない。
何度もぶつかってきた壁のはずなのに、これからもずっと乗り越えられる気がしない。弱い弱い自分を記録して向き合う。
「自分の感情よりも先に、相手のことを優先したい。」
「相手のスケジュールや考えを尊重していきたい。」
自分が動かす立場になればなるほど、出てくる葛藤がある。
抱えているものが多ければ多いほど、大きければ大きいほどキツくなるし責任感が強い人ほど、自分を犠牲にしようとする。だからこそ配慮していきたいと思うし、それを中途半端と捉えないようになった。
それが「できる範囲での全力を出してくれた結果」であると認識できるように変わった。
でも「いざ」という時が来ると、途端に向き合えなくなる。
苦しさや悲しさや虚しさとか、そういう負の感情が一度に押し寄せてきて逃げたくなる。
自分の我儘な部分が露呈してきて、首を横に振りそうになる。イヤダイヤダと駄々をこねそうになる。
同時に「相手を優先しよう」とする自分が出てきてややこしくなる。自分がどうしたいのか分からなくなる。
大袈裟に捉えすぎているのかもしれない。涙と鼻水が同時に押し寄せてきて呼吸困難になりそうになった。過呼吸とかいつぶりってくらいに荒れ狂う。明日は大事な試験がある日なんだけど頭の中整理ができない。
「辞める」という選択。
やっていることが無意味に感じたり他に優先すべきことが多くなったりすれば勿論ある。
そもそも「やる」と決めるのも「やらない」と決めることができるのも自分自身。だから決めた決断には誰も何も意見することはしない。私自身の決断に対しては勿論だけど、相手が下した決断に関しても同様に言える。
と、大人な自分だけが出てくれば、解決。何も問題はないし全てがクリアになる。だけど実際は「でも…」と我儘で子どもな自分がいる。
辞めたいと言ってきた人の気持ちを優先して何も言わずにいたことがある。
相手の気持ちを優先したいという偽善の自分がいた。「辞めたところで、私たちの関係は変わらない」と信じていた部分も正直ある。
それでも世の中そう上手くはいかず。実際に辞めてしまってから関わりはあったかというと極端に減ってしまった。何かにつけ、集まる理由がそこにあったから集まることができたんだと思う。私の関わり方も反省すべき点なんだろうけども。
「薄っぺら」ではないはずの関係も、時間が経てば変わるんだろうなと冷めた視点も増えた。
自分の弱さと向き合うのが、こんなに苦しいのか。今まで逃げてきたから向き合えないのか。感情が一気に何度もぶつかってぶつかって結局よくわからなくなった。
混乱のあとは無情になるのかもしれない。感情なんていらないと叫びそうになる。
苦しみから逃げても何も残らないし何も変わらない。
2016/07/16
自分
自分の感情が大きくなればなるほど、相手の感情が気にかかるようになった。気にかかるというより気にかける、の方が正しい表現かもしれない。
人間付き合うのが一番難しくて簡単なのは自分自身なのかなと思う。
他人は自分が離れたら縁をきることだってできる。(色々大変になるかもしれないけど。)
一方で自分は切っても切り離すことができない。
そしてある意味、自分とは誰よりも長く付き合ってきたし、これからも長く付き合っていくことになる。
じゃあ向き合うべきは自分で、それと同じくらい向き合う時間を取るべきところに家族がくるんじゃないかなと思う。
2016/07/11
消えてくれなかった感情を整理する
今日は少し服装が派手な子がいて、周りにそういう服装をする子がいないせいなのか、その子がとても目立っていた。
「ねえ、あれ…」
「まじで無理だわ」
「生理的に受け付けない」
とかなんとか言って、周りと口を揃えて陰口を言う人が沢山見えてきた。それも、聞こえるか聞こえないかの声の大きさで陰口を次々に言う。止まらない勢いで、話す人数も次第に増えていった。多分本人にも聞こえてたんじゃないかと思う。
そう1日が今日あって、自分に向けられた言葉ではなくても悲しい気持ちが大きかった。例え他人のこととはいえ、同じコミュニティに属する人達が、こんなレベルの低い悲しい行動をしていると思うと、なかなか消えてくれなかった。
合う合わないっていうのが存在するのも分かるし、言動が理解出来ないとかあるのは他人だから仕方ないとは思う。
ただ、それを影で言ったり、集団で馬鹿にしたりって間違ってると思う。
人としてどうなのかって話で。
相手がどう感じるかとか、少し考えればわかることでしょ。
陰口を言うくらいなら本人に言えばいい。
それが出来ないなら
まず、その感情を自分の外に出すなよ。
2016/07/06
欲張りで酔っ払い
私には、高校の時に本当にどんな時も支えてくれて今でもピンチの時にお助けマンになってくれるスーパー大事な人がいる。
少しだけ前に、何かと自分で背負いすぎてまるで背負い投げの連続技のような精神的にも体力的にもピークがやってきた。その時にスーパーお助けマンに手紙を書いた。
すぐに返事が欲しいわけではなく「この人に聞いて欲しい」というだけで書いた。
その返事が先日届いて「ああ、こんなにも大事な人の言葉は心に響くものなのか」と読みながら泣いた。厳しくも優しくもある手紙の文章が、今でも脳裏に浮かんでくる。もう本当に好き。
私は何かと欲張りで、どのコミュニティに対しても強く関わろうとしていた。「中途半端な自分」が嫌で嫌で仕方ないし、自分の手抜きによって誰かに迷惑をかけるなんて、猛烈な嫌悪感を抱く以外の感情はない。
同時に「自分で頑張るって決めたなら弱音吐かずに最後までやり抜けよ。やりたくないなら最初からするなって話。やると決めたのは自分。」という感じで自分の言動に責任を持たないなんて許すまじきことだ!と思っていた。
そこに対しての考えは今も変わらないけれど、手紙の返事を読んで私は自分が「欲張りで酔っ払い」だとわかった。
「断れない」や「迷惑をかける」などの綺麗事・言い訳を並べて、仕事の全てを一気飲みしていた。流されるような意志の無い骨無し人間。
その結果、酔いがまわって動けなくなる。そして吐いたり数日間休息をとったりしなければ動けないままの状態。
そして後から「なんて迷惑な野郎だ」と落胆する。
「時間をかけてしっぽり嗜む」もしくは「強いお酒は飲まずにある程度気をつけて飲む」ようにしないといけない。酒に飲まれて記憶が無くしたとか言って迷惑をかけまくり人間なんて私はなりたくない(何の話か分からなくなってきた)
結論、自分をしっかり見つめていこうって話。
2016/06/30