ほろ酔い気分で恋バナをしよう。
勇気を振り絞って、告白するという時に限って緊張して「す」の一文字しか言えなかった告白をしたことがある。
好きな人を目の前にすると、上手く気持ちを伝えられなかったり素直になれなかったりする。恥ずかしさとか緊張とか、そういう色んな感情が入り混じって、面倒臭い人間に成り下がる。今まではこのことを「そういうもんだ」と自分を誤魔化し、甘やかしてきた。
ただ、それを変えてくれる人はいるもんで。
どこが好きか聞かれたら「全部」と応えるくらいにゾッコンになった。美化しているかもしれないし、相手の良いところしか見れていないかもしれない。ただ、一緒にいる時間だけで全てが好きだと思った。もっと一緒にいたいと思うようになった。強い部分も、そうじゃない部分も全部ひっくるめて大好きになった。
恋愛について話すと幸せな気持ちになるのは、相手の好きなところが次々に溢れ出てくるからだと思う。まるで、その楽しかった瞬間に戻ることが出来たかのような気持ちになるからだとも思う。タイムスリップみたいな、そんな感じ。
誰と話していても恋バナが正義なのは、話している方も聞いている方も幸せな気持ちになれるからで。叶う叶わない、うまくいっているうまくいかない、そういうの関係無くそこに「好きという気持ち」があるだけで良い気がする。
たまに、寂しさを埋める為だけの関係とかがあるけど、それで最後にお互いが幸せになるならいいと思う。中途半端な関係は、よくないけれど、そういう時期って誰しもあるもんなんだと思う。それを経て、関係が良い方向に変わるならオールオッケーな気もする。浮気とかそういうのは抜きにして。
実際に会えるか会えないかに関わらず、会いたいと思った時に素直に「会いたい」と伝えられるだけでいいんじゃないかって思う。きっと嬉しい気持ちになる。
確かに、他に優先すべきことがあったりその言葉自体が負担になるとか、そういう複雑な問題はあるのかもしれない。でも言わなきゃ伝わんないってもなる。
とかいう自分が言えてるのかは別問題ってもなる。酔っ払った勢いで好きな人についてダラダラ書きたくなるっていうくらいにほろ酔いってなって、言葉に出来る。ほろ酔いなら本人に伝えられる。
他人相手だったら上手くアドバイスが言えたりするのは、それが自分じゃないからで。いざ自分となると、苦しいとか悲しいとか寂しいとかプラス以外の感情を体感することになる。怖くて動けなかったり、そもそも盲目になって冷静に判断できなかったりする。人がゲームにハマるのは、そういう自分以外を操ることが出来るから、らしい。喜怒哀楽の感情を外から見ることができるから。
自分と会話するのが大事って言われるのは、そういうところだろうな。客観視することで、相手の視点も含めることができる。いい意味でも悪い意味でも。
まあ、そういう冷静な視点っていうのは理性が働くから持てるんだろうな。冷静すぎるより、自分の感情に素直な方が好きだけど。淡麗が好きなのは、理性が飛ばせるから。でもまあ、たまには、そういう視点をもって整理して良い方向に進める時間も大事だな〜。
ほろ酔い気分でダラダラと書いて、淡麗片手に誰かと話したくなったところで寝ます。
2017/11/03
大人になりたくないと思った
人の死とは、ほとんど直面した事がない。病院なんて、指で数える程もないくらい行ったことがない。とおい、名前も知らないような親戚の御葬式に参加したくらいで、そういった場面に直面したことがない。
だからこそ人の死は恐いし、今後も経験したくない。なんて甘えたことも言える。
と、こんなことを書いているのも最近あった色々が、ひと段落したからで。お酒を飲んだら涙が止まらなくて赤ん坊のように泣いて、沢山周りに支えてもらいました。ありがとうの記録。
ある日「帰って来てくれないか」と実家から突然連絡があった。
毎月のように帰っているのに。その日はずっと前から楽しみにしていた予定が入っているのに、連絡があった。頭の中のハテナをクリアにするために聞いた理由は、想像とは全然違った。頭の中が途端にフリーズした。
お爺ちゃんが倒れて、数日前から入院している。
大人になるって、こういう事だったなら大人になりたくないと思った。苦しさを何かで紛らわしたとしても、現実は変わらず目の前にあって、結局は自分が背を向けているだけだったりする。向き合う勇気も色んな覚悟も今はまだ出来ないし、強さなんて持ち合わせていないけど、きっともう少しだけ頑張れる、と言い聞かせ続けた。
チクタクと鳴る腕時計の秒針の音が着々と命を刻む音に聞こえた。カウントダウンをされているような気持ちになった。手遅れだった、というわけではない。目の前から居なくなってしまったわけでもない。
でも、もうその時は着実に近付いていて「覚悟しなければならないね」と周りは言っていた。その時がいつきても大丈夫なように。時期は来た、と言いたげに。
そんなことは出来ないし、余裕なんてないし目の前のことから目を背けたくて堪らなかった。でも、もっと苦しいのは本人で。無力な私が唯一出来ることは、変わらず笑顔で話すこと。まるで、何事も無かったかのように接するのが唯一出来ることのはずなのに、話し終わったら涙が止まらなかった。
病室の隣のベッドの人の会話が聞こえた。「しっかりしてよ、お願いだから」と泣きながら訴えている女性。まるで将来の自分達を見せられているかのような気持ちになった。自分に余裕が無くなって、自分でいることが嫌で仕方なくて情けなくて泣いて怒鳴って苦しんで虚しくて戻りたくてって、感情が揉みくちゃになっていた。耳を塞ぎたくなった。
隣の会話が聞こえないように話しかけてもプツンプツンと途切れてしまう。「何か話さなきゃ」と思うも、いつもと違う姿に動揺して言葉が出ない。ぎこちない会話になる。時折見せる切ない表情を、なんとか明るくしたいけれど何も出来なかった。
なんで、自分じゃないんだろうと何度も思った。もっと近くにいれたら、と何度も思った。前みたいに冗談言い合えるような会話がしたいと、苦しくなった。
「これが最後になっても大丈夫なように」なんて綺麗事を言えるほどの余裕は無くて、それでも後悔しないように笑いかけるんだけど上手く笑えなくてっていうサイクル。
そのまま時間だけが過ぎて、帰りの時間になった。帰りの移動時間に流れた音楽が救ってくれた。言葉のエネルギーは凄い。音楽のエネルギーはすごい。
今はこんなに悲しくて涙も枯れ果てて
もう二度と笑顔にはなれそうもないけど
「そんな時代もあったね」といつか話せる日が来るわ
「あんな時代もあったね」ときっと笑って話せるわ
だから今日はクヨクヨしないで
今日の風に吹かれましょう
あと、一年前の六月に書いてた文章があるんだけど、結局全てはこの考え方だってなった。
「ある程度歳をとれば、いくら逢いたさが募ったとしても、二度と会えないなんてことが当たり前になってくる。変に自意識過剰に陥らず、会いたい人には会いたいと、好意がある人には好きだと、素直に行動するべきだと思う」っていう文を見て、改めて会いたい人には皆に会おうと思った。素直に動こう。
お爺ちゃんは無事に退院しました。会える時間は限られてるけど、だからこそ、これまでと変わらない時間を一緒に過ごしていきたい。
2017/09/14
衝動に任せて書いた
この今の感情を、今すぐ書き残したい。と衝動に任せて文字に起こしている。
ここ数ヶ月間は、ゆっくり過ぎていってた。同時にあっという間にも過ぎてった。変わらないと変わらないとじゃ変われないし、変わってる実感もないんだろうなと思いながら何度も過ごしてきた。
久しぶりにペン握って文字書いた。
そんな今日も大好きな人に会うことができて、気持ち揚々でラクダの真似をしました。元気になりました、ありがとう。エネルギーチャージ完了。幸せな時ほど調子に乗って気持ちが良いもんは無い。今月はいっぱい調子に乗れそう。
苦しいことも、しんどいことも、ちゃんと向き合おう。目を逸らしても何も変わらない。少しずつ、変わろう。 しばらく経って読み返した時に成長してるといいな〜〜
2017/08/06
恋バナをしたら心配される理由
「あの人はこういう人だ」と一度なんらかの印象を持つと、ずっとその後もその印象はつき続け、そういう目でその人の事を見てしまう。しまいがち。
すごいと思えば、そのへんの有名人よりも自分の中でのその人は輝き続ける。その人の紡ぐ言葉ひとつひとつに深みを感じて、尊敬に尊敬を重ねていく。何をしても素敵、というようになる。ある意味で、相手が見えなくなる。
「そんな大した人間じゃないよ」と言われれば「じゃあ、どんな人間なのかもっと知りたい。」となる。自分の見ている世界が全てではないとは分かっていながら、自分の見えている世界以外に目を向けようとすると何が何だか分からなくなる。
自分から好きになるときは大体、関わってから好きになる。知れば知るほど魅力的に感じて、見えなくなる。好きになったら相手に完全に染まる。
お薦めと言われた映画は全て見るし、相手が好きな食べ物や飲み物は全て好きになる。ショートヘアが好きと言われて翌日、伸ばしていた髪をバッサリ切ったこともある。こんなにも影響を受けやすいものかと驚くことがある。好きがこんなにも大きいものだったのかと気付かされる。染まりやすい。でも、きっと好きになったら相手に染まるのは誰でも経験あるはず。
ただ、友達と恋バナをしているときに「過去になにがあった」と心配されるくらいには恋愛感情に対して踏み出すということができない。それはBARで働いていた短い期間で学んだ大人のブラックな姿が頭から離れないからだと思う。
「きみ、若いから同世代の人としか経験ないでしょ。もっと上とのセックスを経験した方が良いよ。知らないなら教えてあげるから。踏み台にしていいよ。」とダイレクトに言われたこともある。親切心なのかもしれないけれど、結局自分がやりたいだけでしょと冷めた自分がいた。
「性欲処理でしかないよ、女は。付き合ったら面倒になるだけでしょ。だるい。」と愚痴をこぼす年の近い男の人の話。
「コンドームは男が買うことが多いけれど、別に男が避妊する必要ないし、妊娠したら捨てればいいだけだから逆だろ」と自慢げに話す人もいた。
別にこれが男の人の実態だとか、この考えが世の男性の全てではないとは思うけれど、セーブをかけるようになった。きっと皆に言っている。自分の欲のために言っている。そう考え始めたら、どれだけ相手を魅力的に感じていてもぐっと冷める。美化しすぎていたと冷める。
でもやっぱり好きな人に好きと言いたいし、本当に好きな人から好きと言われたい。でもまあ男の人が複雑なように、女の人もきっと複雑なんだろうなきっと。
ということを書いていたら隣の席にいた男性から連絡先が書いてある紙を渡されて戸惑っていますが、詐欺の可能性もあると言われ益々混乱しています。人間ってむずかしい。
2017/05/22
ゴールデンウイークのはなし
休みが当たり前のようにあった大学生の時と違って、連休は基本的にない社会人。二日連続の休みが無いマイナスのように聞こえる日も、実はプラスだったりする。経験しないと分からないことって多い。
無いものと思っていた五月のゴールデンウイークは、三日間のお休みを頂けて。大好きなお婆ちゃんの米寿のお祝いをする為に一日休みを増やしてもらい、四日間の連休。休みっていうのが「特別」になった今、この四連休は、特に貴重&大切レベルが高かった。最高に楽しみだった。
名古屋と岐阜と福岡に行ってきた四日間は、大好きな二人が企画したキャンプに気持ちが高揚して、財布も携帯も無くすという、エブリタイム余裕無し状態だったけど全て見つかって結果オーライってことにする。
もう余韻が止まらない。ビバ青春☆☆って感じ。若さしかない。
仕事だけじゃない楽しみのある人生にするかしないかは自分次第だなって思った。 帰って来てからも、わざわざ広島に来てくれる存在がいてくれて幸せの極みかよってなった。
広島にいるという実感は正直まだあまりないけれど、街中で飛び交う方言に「じゃ」が多いところや帰り道に川と橋が幾つかあるという点では、福岡とは違うなって思う。
家に着くのが二十三時過ぎて、夜ご飯どうしようタイムの毎日。冷蔵庫の中を淡麗でいっぱいにして、仕事終わりに飲むっていうのが唯一の楽しみとか言い出す生涯独身働きウーマンとかになりそうだったので、冷蔵庫を他のものでいっぱいにするようにしました。「特別感」のレベル感を高めるためにしばらく禁酒生活。
この「特別感」が、たまらなく好きで嬉しくて常に感じていたいくらいある。だからこそ「特別」だけじゃなくて、特別ではない方にも意味が出てくる。特別も当たり前も大切にしていきたい。
2017/05/07
社会人になりました。
三月三十一日、新幹線の窓越しに母親と涙のサヨナラをして、東京二十二日目に書いたこと。
東京での研修が終わり、バタバタ飛行機に乗り込んで大好きなスターフライヤーで珈琲を飲みながら記録する。
毎朝毎晩通勤は満員電車、四六時中会社の勉強。毎日三食自炊して、一通り終わればまた勉強。電車で寝てもいないのに最寄り駅を通り過ぎていたり、気付けばお風呂で気を失っていたり、なんて日もあった。
学生の時もハードな日を送るというのには慣れているはずだった。学校終わりの飲食店のバイトを二十三時半まで、終わってBARで朝四時まで働く。ベッドに横たわる二時間半後には学校というルーティン。その限られた睡眠時間ですら、友達との電話にあてる日すらあった。
若さなのか、考えていないだけだったのか、わからない。タフだった。
社会人の今は、五時間の睡眠は確保できていても、頭が働かなかった。価値を提供できない自分のレベルの低さが苦しかった。数字で評価され、ランキング付けされ、公表。意図を理解していても、プレッシャーに押し潰されそうになり、周りとの差がつく感じもストレスだった。
苦しくて能無しの自分に嫌気がさしたけど、頑張ろうと思えたのは上司の言葉や同期の存在。週1の休みに名古屋、新宿、お台場で大好きな人達に沢山会えたことも大きい。
苦しいとか、寂しいとか、羨ましいとか、全ては自分次第でなんとかできる時もあるということを証明したかった。悲しいと、悔しいは全部誰かの救いになる。未来の自分かもしれないし、自分ではない同じ思いをした他の誰かかもしれないけれど、絶対つながると何度も言い聞かせる内に変わっていく気がした。
ぎゅうぎゅうに人が敷き詰められる東京の満員電車が、楽しいアトラクションのように変わった。電車に入ってすぐ、椅子取りゲームの開始と思うようになった。すると電車を待つ時間が楽しくなった。
そこで座れなかったら、次は満員電車の中で外国人の近くに移動して、リスニングの授業の始まり。テレビの天気予報を見なくても、天気を教えてもらえるようになった。
椅子も座れず外国人もいないとき、イヤホンをしている人がいれば音漏れを頼りにイントロドン。それすらも出来なければ、広告の出番。大好きな淡麗やお酒の広告を探して、気分を上げる。
起きている事実は同じでも、楽しみ方が変わった。満員電車だけじゃない。駅から会社までの道を毎日少しずつ変えて冒険する。銀座は、大都会だ。カフェに入る日もあれば、いつもより二時間前に家を出て散歩をする、とか。エナジードリンクを変えてみる、とか。
東京に来た日から今日までで気付いたのは、全てを前向きに捉えるっていうのが案外難しいということ。それでも、なんとか変えようとするだけで、少しだけ気持ちが明るくなる。
自分でなんともできないときは、誰かに頼ってみたらいい。相談じゃなくても話すだけで気持ちが楽になる。どうしようもないときに、顔が浮かぶ存在になりたいと思った。
東京ありがとうございました、また勉強することができました。
2017/04/22
大好きな人から突き放されて考えたこと
「程よい距離感」というのは人それぞれであり、幼少期の経験が強く関係していることが分かった。距離感ってなんだ。「あなたとわたしの程よい距離感は30cmです」というくらいに明確に表すことができたらいいのに。少しだけ、前の話をします。長いです。
この間「程よい距離感」について書いたのは、その距離感というのが分からなくて、心から尊敬していて大好きな人から突き放されてしまったからだった。というのも、ことの発端は「嫌なら突き放してくれ」と言い出した私自身で。感情的になって出てきた言葉が、状況を悪化させた。自分にとっての程よい距離感と、相手にとっての程よい距離感というものに違いが生じていた。
途端に連絡が取れなくなって、関係を遮断された。「悲しい」とか「後悔」のあとに、「これでよかったのかもしれない」と気付けば合理化しようとしていた。感情のすり替えをしようとした。
相手にとって、自分という存在がすべての事から差し引いてみれば「こっちの方が良い」ときっと思うだろう。すべて、無かったことにすればいい。「出会わなければよかった」というより、「そもそも出会っていなかった」と思い込めばいい。そうすれば自分も相手も、こんな複雑な思いをしなくて済むと思った。でも、それで良いとは思いきれなかった。
随分と前に、親しくさせてもらっている先輩から「好きとか嫌いとか、はっきり言えるところ,いいよね、すごく好き」と褒められたことがある。素直に嬉しかった。好きを好きと伝えていいことが嬉しかった。好きだなと感じたら、すぐに相手に伝えようと強く思った。
だけど複雑なことに「好き」という二文字には色んな種類の「好き」がある、らしい。恋愛の好き、友達の好き、家族の好き、憧れからくる好き、親近感からくる好き。私が伝えていた好きは、全て同じフレームの中にあった。カテゴライズすることで「曖昧模糊としたもの」が消えるのを避けていたのかもしれない。言葉に出来ない感情を言葉にしてしまったら、その美しさが失われるような、そんな感じ。
ただ、好きだという感情に偽りはなく。「好きだから好きと伝えた」という、それだけだった。でも伝える相手のことは考えていなかった。人として尊敬していて大好きで、どうしてこんなに素敵なのかと、関われば関わるほど魅了されていた。魅了される度に好きを伝えていた。それが、伝えるたびに苦しませていたと、後で知った。
「恋愛なのかどうなのか分からない好きのままでいる」という現状に満足していたことは、曖昧だからこそ誰からも理解されてなかった。現状に満足していたからこそ、理解されようともしていなかった。
恋愛としての「好き」とそうでない「好き」の境界線が分かったなら、この距離感の違いをうまい具合に調整できたのかとも思った。
聞けば「キスができるか」だの「セックスができるか」だの、そういう関係のことばかりでラインを引いている人が、ほとんどのようだった。身体だけがその人との関係なら、セックスフレンドはどう説明するのか。それを言ったら「逆に言えばそこなかったら、ただの友達止まりでもよくない?」と言われた。確かに、とも思ったし、そうなのかなとも思った。
また、別の人は「弱さを見せ合えるか」で線引きをしていると言った。少し納得をした一方で、付き合うことが弱さを見せ合うことができる関係になることなら、それは甘えなんじゃないかとも思った。どちらかが頼ることで、頼れない若しくは頼られる側に徹してしまって、相互関係は無くなってしまうんじゃないか、とか疑問を持ち始めたらキリが無かった。弱さを見せ合うって、支え合うってこと。時間が経てば関係ないものなのか、とか。
自分の「好き」が細分化されていなかったからこそ、まわりの恋愛の線引きを聞くと「あ、なるほど」という感想ばかりだった。一緒にいるのが楽とか、そばにいなくても好きだと思うとか、そういう明確ではないものもあった。みんなにとっての恋愛の境界線ってどこなんだろう。
結論、人それぞれだなと思ったと同時に、「好き」とか「嫌い」とかを細分化する判断要素は一つじゃないっていうことに気付かされた。当たり前だけど、当たり前じゃなかった。
自分の見ている世界は思っていたよりも狭くて、思ったよりも見えていないものが多い。
結局あれこれ「恋愛って。好きって。距離感って。」と頭を抱えていたけれど、いざ本人に会えば「本当に心から大好き」ってなった。細分化するまでの判断要素は持ち合わせていないし、自分や相手にとっての程よい距離感も分かっていないけれど、「そんなのどうでもいいくらいに大好き」という完全感覚ドリーマーになったというオチになった。今は連絡を取らなくなったけど、それでいいんだと思えるようになった。程よい距離感、なのかもしれない。
自分にとっての「程よい距離感」は分かっても、相手の距離感はある程度しか分からない。だけど、考えることは大切だと思った。距離感は近すぎると、盲目になる。近すぎて見えなくなって、その部分は恣意的に埋めようとする。盲目を美とするのか醜とするのかは、相互関係において判断することが出来るし、その判断基準となるものは一つではなかった。
そして「全てを無かったことにする」なんていうのは感情がある限り、私には出来ないということと、相手にとってそれが良い選択かどうかなんて私が決めるものではないし決められるものでもないということ。
すこし前のお話。
2017/03/31