日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

日めくりカレンダー

   

うちには、日めくりカレンダーがある。

     
小学生の頃から毎日めくられてきたカレンダーには、日付と一緒に言葉が書いてある。皆さんも良く知る、相田みつをさんのカレンダー。

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物心ついた頃から繰り返し、めくってきていた。すっかり日常の中に溶け込んでいる。敢えて意識的に見ることは、今ではほとんど無くなっている。

     

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朝起きたら、家族と「おはよう」を交わして、それからカレンダーを見る。何を思う訳でもなく、機械的に目を向けるという感じ。

     
最近は、なにかと「機械的」に取り組んでいくような気がして悲しくなる。充実はしていても、物足りない。充実の味を知っているから、毎日が薄く感じるのかもしれない。

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何が正解か分からないことがある。というか、そういうことの方が多いかもしれない。ハナマルがほしくて、転ばぬ先の杖になっているように思える。大きな失敗しないようにしているから、物足りないのかもしれない。

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二十四歳になり、これまでの経験から「自分の価値観が全てではないということ」を学んできた。その考え方がある上で、相手の価値観も全てではないということが同時に頭に浮かぶ。

      
こうなってくると、ここでも何が正しいかよく分からなくなる。「決めた後、正解にできるように動けばいい」なんて簡単な言葉で片付けることはできるけど、そうすると少しだけ自分の中に違和感が残る。

    

それが全てなはずなのに、断言していたり公言して決めつけたりする人は、皮肉と憧れを込めて凄いと思っていた。周りが見えていなかったときの自分を見ているような気持ち。

     

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今、そこまでの熱さがあるかと問い掛けるとするならば、答えは何になるだろう。言い訳を並べるのだけは得意になった気がする。

    

子どもの頃みたいに、必死になって目の前のことに向き合うのが苦手になった。というか逃げてきた。なにかを訴えかけて争うということが嫌で、良いように解釈していただけだった。悪い言い方をすると妥協になる。

      

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自分の価値観が確実ではない癖に、相手に押し付けるように主張するなんて、おこがましいと思ってた。環境も生き方も違うのに、ぶつかったところで平行線だとぶつかる前から先を見据えたような目をしていた。面倒なことから逃げていた。


なのにいつもどこか、強くも熱くもない自分がいることが腹立たしかった。都合のいいように自分に言い訳しているのが、まるわかりだった。

   

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そしたら、あの家のカレンダーが突然目に入った。日常の中に溶け込んでいたはずなのに、ぱっと目の前に現れた。

     

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「アナタの主人公は アナタなんだよなあ」というもの。シンプル。分かりきっていることなのに、色んな意味に聞こえた。冷たいような温かいような、そんな言葉。

    

周りとは違って当たり前。生きてきた方法も生き方も違う。周りと比べる必要はない。「わたしは、わたし」と割り切ること。アナタというのを自分自身のこととして捉えての言葉。

 

自分と違ってもそっぽを向く必要はない。「あなたは、あなた」と一度は受け容れること。アナタというのが、周りのこととして捉えての言葉。

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自分に対しても周りに対しても価値観はそんなに簡単には変わらない。だからこそ、周りとも自分とも上手く付き合っていきたい。

    

生き方がわかると、生きやすくなる。生きたいように生きるのが一番だと思う。


2018/07/25