日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

大好きな人から突き放されて考えたこと

「程よい距離感」というのは人それぞれであり、幼少期の経験が強く関係していることが分かった。距離感ってなんだ。「あなたとわたしの程よい距離感は30cmです」というくらいに明確に表すことができたらいいのに。少しだけ、前の話をします。長いです。

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この間「程よい距離感」について書いたのは、その距離感というのが分からなくて、心から尊敬していて大好きな人から突き放されてしまったからだった。というのも、ことの発端は「嫌なら突き放してくれ」と言い出した私自身で。感情的になって出てきた言葉が、状況を悪化させた。自分にとっての程よい距離感と、相手にとっての程よい距離感というものに違いが生じていた。

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途端に連絡が取れなくなって、関係を遮断された。「悲しい」とか「後悔」のあとに、「これでよかったのかもしれない」と気付けば合理化しようとしていた。感情のすり替えをしようとした。

                  

相手にとって、自分という存在がすべての事から差し引いてみれば「こっちの方が良い」ときっと思うだろう。すべて、無かったことにすればいい。「出会わなければよかった」というより、「そもそも出会っていなかった」と思い込めばいい。そうすれば自分も相手も、こんな複雑な思いをしなくて済むと思った。でも、それで良いとは思いきれなかった。

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随分と前に、親しくさせてもらっている先輩から「好きとか嫌いとか、はっきり言えるところ,いいよね、すごく好き」と褒められたことがある。素直に嬉しかった。好きを好きと伝えていいことが嬉しかった。好きだなと感じたら、すぐに相手に伝えようと強く思った。

           

だけど複雑なことに「好き」という二文字には色んな種類の「好き」がある、らしい。恋愛の好き、友達の好き、家族の好き、憧れからくる好き、親近感からくる好き。私が伝えていた好きは、全て同じフレームの中にあった。カテゴライズすることで「曖昧模糊としたもの」が消えるのを避けていたのかもしれない。言葉に出来ない感情を言葉にしてしまったら、その美しさが失われるような、そんな感じ。

        

ただ、好きだという感情に偽りはなく。「好きだから好きと伝えた」という、それだけだった。でも伝える相手のことは考えていなかった。人として尊敬していて大好きで、どうしてこんなに素敵なのかと、関われば関わるほど魅了されていた。魅了される度に好きを伝えていた。それが、伝えるたびに苦しませていたと、後で知った。

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「恋愛なのかどうなのか分からない好きのままでいる」という現状に満足していたことは、曖昧だからこそ誰からも理解されてなかった。現状に満足していたからこそ、理解されようともしていなかった。

         

恋愛としての「好き」とそうでない「好き」の境界線が分かったなら、この距離感の違いをうまい具合に調整できたのかとも思った。

        

聞けば「キスができるか」だの「セックスができるか」だの、そういう関係のことばかりでラインを引いている人が、ほとんどのようだった。身体だけがその人との関係なら、セックスフレンドはどう説明するのか。それを言ったら「逆に言えばそこなかったら、ただの友達止まりでもよくない?」と言われた。確かに、とも思ったし、そうなのかなとも思った。

         

また、別の人は「弱さを見せ合えるか」で線引きをしていると言った。少し納得をした一方で、付き合うことが弱さを見せ合うことができる関係になることなら、それは甘えなんじゃないかとも思った。どちらかが頼ることで、頼れない若しくは頼られる側に徹してしまって、相互関係は無くなってしまうんじゃないか、とか疑問を持ち始めたらキリが無かった。弱さを見せ合うって、支え合うってこと。時間が経てば関係ないものなのか、とか。

    

    

自分の「好き」が細分化されていなかったからこそ、まわりの恋愛の線引きを聞くと「あ、なるほど」という感想ばかりだった。一緒にいるのが楽とか、そばにいなくても好きだと思うとか、そういう明確ではないものもあった。みんなにとっての恋愛の境界線ってどこなんだろう。

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結論、人それぞれだなと思ったと同時に、「好き」とか「嫌い」とかを細分化する判断要素は一つじゃないっていうことに気付かされた。当たり前だけど、当たり前じゃなかった。 

  

自分の見ている世界は思っていたよりも狭くて、思ったよりも見えていないものが多い。

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結局あれこれ「恋愛って。好きって。距離感って。」と頭を抱えていたけれど、いざ本人に会えば「本当に心から大好き」ってなった。細分化するまでの判断要素は持ち合わせていないし、自分や相手にとっての程よい距離感も分かっていないけれど、「そんなのどうでもいいくらいに大好き」という完全感覚ドリーマーになったというオチになった。今は連絡を取らなくなったけど、それでいいんだと思えるようになった。程よい距離感、なのかもしれない。

           

自分にとっての「程よい距離感」は分かっても、相手の距離感はある程度しか分からない。だけど、考えることは大切だと思った。距離感は近すぎると、盲目になる。近すぎて見えなくなって、その部分は恣意的に埋めようとする。盲目を美とするのか醜とするのかは、相互関係において判断することが出来るし、その判断基準となるものは一つではなかった。

             

そして「全てを無かったことにする」なんていうのは感情がある限り、私には出来ないということと、相手にとってそれが良い選択かどうかなんて私が決めるものではないし決められるものでもないということ。

  

すこし前のお話。

2017/03/31

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