日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

特別と現実と。

 

特別を感じると、ほとんどの人は嬉しい、幸せだと感じる。私は周囲より、人一倍幸せを噛み締めようとしているのかもしれない。

 

 

見知らぬ人が浴衣を着て花火大会の待ち合わせをしていたり、通りすがりの人が美味しかったとお洒落なお店を出ていたりするのを見るだけで幸せな気持ちになる。自分を自分で幸せにできる、と人から言われたことすらある。

 

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人より幸せを感じる場面は多い。もしくは多くしようと無意識のうちにしているのかもしれない。そして、特別って響きが凄くすき。でも難しいなとも思う。

 

 

例えば「会いたい」のたった一言でさえ、特別な相手に使うときと、純粋にただ会いたいっていうだけの相手のときと様々である。

 

様々なくせに、その隠れた感情は「会いたい」の同じ四文字に集約されているから、なんだかなとも思う。無情だな、と。

 

 

 

 

相手にとって何が特別かというのは、きっとその人の感じ方次第であり、そういう意味では人任せとも言える。

 

同時に、その特別かどうかの基準ですらも、「普通」が自分の尺度でしかないので、世間一般で言えば不確かな判断とも言える。

 

 つまりは全て特別にも、つまらないものにもなる。

 

 

 

とはいえ捉え方次第とは言いつつも、事実や現実とのギャップへの耐性も大切なんだろうな。

 

 

「特別だ」「私は特別な存在なんだ」と喜んだとしても自分の中にある自分が普通だから難しいなとも感じる。

 

 

 

 

幸せだと胸が高鳴る瞬間を何度も何度も感じたいのであれば自分を特別と感じたらいいのかもしれない。

 

その時に「思いの外、普通だった」ときに自分がどう感じられるのか。

 

2016/08/13  @長崎