日常を綴る

止まっているようで進んでいて進んでいるようで止まってる

ゴールデンウイークのはなし

休みが当たり前のようにあった大学生の時と違って、連休は基本的にない社会人。二日連続の休みが無いマイナスのように聞こえる日も、実はプラスだったりする。経験しないと分からないことって多い。

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無いものと思っていた五月のゴールデンウイークは、三日間のお休みを頂けて。大好きなお婆ちゃんの米寿のお祝いをする為に一日休みを増やしてもらい、四日間の連休。休みっていうのが「特別」になった今、この四連休は、特に貴重&大切レベルが高かった。最高に楽しみだった。

     

名古屋と岐阜と福岡に行ってきた四日間は、大好きな二人が企画したキャンプに気持ちが高揚して、財布も携帯も無くすという、エブリタイム余裕無し状態だったけど全て見つかって結果オーライってことにする。

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もう余韻が止まらない。ビバ青春☆☆って感じ。若さしかない。

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仕事だけじゃない楽しみのある人生にするかしないかは自分次第だなって思った。 帰って来てからも、わざわざ広島に来てくれる存在がいてくれて幸せの極みかよってなった。

    

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広島にいるという実感は正直まだあまりないけれど、街中で飛び交う方言に「じゃ」が多いところや帰り道に川と橋が幾つかあるという点では、福岡とは違うなって思う。

    

家に着くのが二十三時過ぎて、夜ご飯どうしようタイムの毎日。冷蔵庫の中を淡麗でいっぱいにして、仕事終わりに飲むっていうのが唯一の楽しみとか言い出す生涯独身働きウーマンとかになりそうだったので、冷蔵庫を他のものでいっぱいにするようにしました。「特別感」のレベル感を高めるためにしばらく禁酒生活。

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この「特別感」が、たまらなく好きで嬉しくて常に感じていたいくらいある。だからこそ「特別」だけじゃなくて、特別ではない方にも意味が出てくる。特別も当たり前も大切にしていきたい。

         

2017/05/07

社会人になりました。

三月三十一日、新幹線の窓越しに母親と涙のサヨナラをして、東京二十二日目に書いたこと。

     
東京での研修が終わり、バタバタ飛行機に乗り込んで大好きなスターフライヤーで珈琲を飲みながら記録する。

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毎朝毎晩通勤は満員電車、四六時中会社の勉強。毎日三食自炊して、一通り終わればまた勉強。電車で寝てもいないのに最寄り駅を通り過ぎていたり、気付けばお風呂で気を失っていたり、なんて日もあった。

     

    

学生の時もハードな日を送るというのには慣れているはずだった。学校終わりの飲食店のバイトを二十三時半まで、終わってBARで朝四時まで働く。ベッドに横たわる二時間半後には学校というルーティン。その限られた睡眠時間ですら、友達との電話にあてる日すらあった。

     

若さなのか、考えていないだけだったのか、わからない。タフだった。

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社会人の今は、五時間の睡眠は確保できていても、頭が働かなかった。価値を提供できない自分のレベルの低さが苦しかった。数字で評価され、ランキング付けされ、公表。意図を理解していても、プレッシャーに押し潰されそうになり、周りとの差がつく感じもストレスだった。

     

苦しくて能無しの自分に嫌気がさしたけど、頑張ろうと思えたのは上司の言葉や同期の存在。週1の休みに名古屋、新宿、お台場で大好きな人達に沢山会えたことも大きい。

   

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苦しいとか、寂しいとか、羨ましいとか、全ては自分次第でなんとかできる時もあるということを証明したかった。悲しいと、悔しいは全部誰かの救いになる。未来の自分かもしれないし、自分ではない同じ思いをした他の誰かかもしれないけれど、絶対つながると何度も言い聞かせる内に変わっていく気がした。

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ぎゅうぎゅうに人が敷き詰められる東京の満員電車が、楽しいアトラクションのように変わった。電車に入ってすぐ、椅子取りゲームの開始と思うようになった。すると電車を待つ時間が楽しくなった。

   

そこで座れなかったら、次は満員電車の中で外国人の近くに移動して、リスニングの授業の始まり。テレビの天気予報を見なくても、天気を教えてもらえるようになった。

   

椅子も座れず外国人もいないとき、イヤホンをしている人がいれば音漏れを頼りにイントロドン。それすらも出来なければ、広告の出番。大好きな淡麗やお酒の広告を探して、気分を上げる。

      

起きている事実は同じでも、楽しみ方が変わった。満員電車だけじゃない。駅から会社までの道を毎日少しずつ変えて冒険する。銀座は、大都会だ。カフェに入る日もあれば、いつもより二時間前に家を出て散歩をする、とか。エナジードリンクを変えてみる、とか。

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東京に来た日から今日までで気付いたのは、全てを前向きに捉えるっていうのが案外難しいということ。それでも、なんとか変えようとするだけで、少しだけ気持ちが明るくなる。

     

自分でなんともできないときは、誰かに頼ってみたらいい。相談じゃなくても話すだけで気持ちが楽になる。どうしようもないときに、顔が浮かぶ存在になりたいと思った。

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東京ありがとうございました、また勉強することができました。

 

2017/04/22

大好きな人から突き放されて考えたこと

「程よい距離感」というのは人それぞれであり、幼少期の経験が強く関係していることが分かった。距離感ってなんだ。「あなたとわたしの程よい距離感は30cmです」というくらいに明確に表すことができたらいいのに。少しだけ、前の話をします。長いです。

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この間「程よい距離感」について書いたのは、その距離感というのが分からなくて、心から尊敬していて大好きな人から突き放されてしまったからだった。というのも、ことの発端は「嫌なら突き放してくれ」と言い出した私自身で。感情的になって出てきた言葉が、状況を悪化させた。自分にとっての程よい距離感と、相手にとっての程よい距離感というものに違いが生じていた。

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途端に連絡が取れなくなって、関係を遮断された。「悲しい」とか「後悔」のあとに、「これでよかったのかもしれない」と気付けば合理化しようとしていた。感情のすり替えをしようとした。

                  

相手にとって、自分という存在がすべての事から差し引いてみれば「こっちの方が良い」ときっと思うだろう。すべて、無かったことにすればいい。「出会わなければよかった」というより、「そもそも出会っていなかった」と思い込めばいい。そうすれば自分も相手も、こんな複雑な思いをしなくて済むと思った。でも、それで良いとは思いきれなかった。

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随分と前に、親しくさせてもらっている先輩から「好きとか嫌いとか、はっきり言えるところ,いいよね、すごく好き」と褒められたことがある。素直に嬉しかった。好きを好きと伝えていいことが嬉しかった。好きだなと感じたら、すぐに相手に伝えようと強く思った。

           

だけど複雑なことに「好き」という二文字には色んな種類の「好き」がある、らしい。恋愛の好き、友達の好き、家族の好き、憧れからくる好き、親近感からくる好き。私が伝えていた好きは、全て同じフレームの中にあった。カテゴライズすることで「曖昧模糊としたもの」が消えるのを避けていたのかもしれない。言葉に出来ない感情を言葉にしてしまったら、その美しさが失われるような、そんな感じ。

        

ただ、好きだという感情に偽りはなく。「好きだから好きと伝えた」という、それだけだった。でも伝える相手のことは考えていなかった。人として尊敬していて大好きで、どうしてこんなに素敵なのかと、関われば関わるほど魅了されていた。魅了される度に好きを伝えていた。それが、伝えるたびに苦しませていたと、後で知った。

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「恋愛なのかどうなのか分からない好きのままでいる」という現状に満足していたことは、曖昧だからこそ誰からも理解されてなかった。現状に満足していたからこそ、理解されようともしていなかった。

         

恋愛としての「好き」とそうでない「好き」の境界線が分かったなら、この距離感の違いをうまい具合に調整できたのかとも思った。

        

聞けば「キスができるか」だの「セックスができるか」だの、そういう関係のことばかりでラインを引いている人が、ほとんどのようだった。身体だけがその人との関係なら、セックスフレンドはどう説明するのか。それを言ったら「逆に言えばそこなかったら、ただの友達止まりでもよくない?」と言われた。確かに、とも思ったし、そうなのかなとも思った。

         

また、別の人は「弱さを見せ合えるか」で線引きをしていると言った。少し納得をした一方で、付き合うことが弱さを見せ合うことができる関係になることなら、それは甘えなんじゃないかとも思った。どちらかが頼ることで、頼れない若しくは頼られる側に徹してしまって、相互関係は無くなってしまうんじゃないか、とか疑問を持ち始めたらキリが無かった。弱さを見せ合うって、支え合うってこと。時間が経てば関係ないものなのか、とか。

    

    

自分の「好き」が細分化されていなかったからこそ、まわりの恋愛の線引きを聞くと「あ、なるほど」という感想ばかりだった。一緒にいるのが楽とか、そばにいなくても好きだと思うとか、そういう明確ではないものもあった。みんなにとっての恋愛の境界線ってどこなんだろう。

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結論、人それぞれだなと思ったと同時に、「好き」とか「嫌い」とかを細分化する判断要素は一つじゃないっていうことに気付かされた。当たり前だけど、当たり前じゃなかった。 

  

自分の見ている世界は思っていたよりも狭くて、思ったよりも見えていないものが多い。

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結局あれこれ「恋愛って。好きって。距離感って。」と頭を抱えていたけれど、いざ本人に会えば「本当に心から大好き」ってなった。細分化するまでの判断要素は持ち合わせていないし、自分や相手にとっての程よい距離感も分かっていないけれど、「そんなのどうでもいいくらいに大好き」という完全感覚ドリーマーになったというオチになった。今は連絡を取らなくなったけど、それでいいんだと思えるようになった。程よい距離感、なのかもしれない。

           

自分にとっての「程よい距離感」は分かっても、相手の距離感はある程度しか分からない。だけど、考えることは大切だと思った。距離感は近すぎると、盲目になる。近すぎて見えなくなって、その部分は恣意的に埋めようとする。盲目を美とするのか醜とするのかは、相互関係において判断することが出来るし、その判断基準となるものは一つではなかった。

             

そして「全てを無かったことにする」なんていうのは感情がある限り、私には出来ないということと、相手にとってそれが良い選択かどうかなんて私が決めるものではないし決められるものでもないということ。

  

すこし前のお話。

2017/03/31

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ほどよい距離感

近すぎて見えないことがある。遠すぎて見えないこともある。距離感って難しい。

    

「ほどよい距離感」というのがわかってしまえば全てクリアになるのかもしれない、とよく思う。

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恋愛にして例えるならば「恋は盲目」という言葉が妥当なのかもしれない。

    

シェークスピアの小説「ヴェニスの商人」で出てくる台詞「But love is blind,and lovers cannot see the pretty follies that themselves commit.(しかし恋は盲目であり、 恋人たちは自分たちが犯す愚行に気づかない)」。盲目になって潰れちゃってる人、よくいるな〜って思うし自分も自分しか見えなくなることがよくあるな〜って思う。

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そういう盲目になる状況。存在するものが認識されないのは、「遠すぎる」「近い」「感覚が機能していない」「注意力が機能していない」「微細」「障害物がある」「隠されている、制圧されている」「似たものを混同し、混乱している」の8つの状況のときらしい。インド哲学で、そう言われているらしい。

           

遠すぎたり、近すぎたり。人間関係では近すぎると、うまくいかなくなることの方が多いのかな。至近距離すぎると、物理的にも全体像が見えなくなる。憶測とか、思い込みとか恣意的なものが増えてくる。

      

  

じゃあ「ほどよい距離感」っていうのは、どういうものか、説明出来ない。きっと、人それぞれっていうのが正解になる。関係とか環境とか、そういう色んなものが絡み合って複雑な気がする。

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心理学的に言えば、こういう対人関係での「ほどよい距離感」の感覚っていうのは、幼い頃の環境が強く影響しているらしい。特に恋人とかそういうパートナーとの距離感は威勢の親との距離感が反映しやすい、と。無意識に過去の思い出をなんとか癒そうとしているみたい。

 

ほえ〜〜〜ってなった代わりに、なんだか抽象的に書きすぎて、大学のレポートみたいになった。今度エピソードも交えて書いてみようっと。

 

 

2017/03/21

会う会わない会えない

お母さんが大好きな人をマザコンと略し、お兄ちゃんが大好きな人をブラコンと言うならば、私は家族が大好きなので「ファミコン」と呼ばれる位置に属している。というくらいには、自慢の家族である。

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毎週末のように帰っていた佐賀には月に1回帰省するかしないかの頻度になった。
毎日会っていた福岡のお婆ちゃんには、卒業旅行とかを言い訳に週に2~3回しか会わなくなってきた。久しぶりに会ったら少し皺が増えているような気がした。

       

必ず月一で会っていた長崎のお爺ちゃんとお婆ちゃんには、二ヶ月に一度会えるか会えないかになった。言わないだけで、二日前まで体調を崩していたり調子が良くない回数が増えたみたいだった。

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「会えない」と「会わない」は違うし、「会えない」も「会える」に変わる時がある。

    

社会人になって、会う頻度が減るのが既に分かっている。距離の問題にしたくはないけれど、仕事のせいにしたくないけれど、きっとそうなる。その中で、どれだけ会えるのか。どれだけ会うのか。時間を共にできるのか。

    

「会える」も「会えない」に変わることがある。

    

あ〜〜〜会えるうちに会おう。

  

2017/03/21

シンプルではいかない世の中なのかもしれない。

ぬるくなったミルクティーの味がしなくなった。気付いたら冷めてしまっていた。美味しいというのが冷めたというだけで同じものとは思えないくらい変わって見えた。f:id:tnzoe3:20170131192836j:image

    

「ごめんなさい」と飲み切らずにお店を出てもいいんだろうけど、冷え切ったそれを飲み干そうとしたのは何故だろう。自分の中でミルクティーという名前がついているものを飲んでいたいだけなのか。自分のことなのに分からないことが多すぎる。

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感情をありのままぶつけることがいいと思っていたけれど、いつでもそれが一番いいとは限らない、らしい。当たり前だけど、当たり前じゃなかった。シンプルにいけよって思うし、シンプルに在れよと思っていたけれど、世の中って思っていたより複雑だった。自分の感情に素直であれと思っていたのが、それだけではうまくいかないという当たり前のことを痛感させられた。自分の感情をありのままに伝えていたいと思っていたのは自分自身の甘えで、周りへの配慮なんてゼロに近かったのかもしれない。

   

好きとか嫌いとか合うとか合わないとか、必ずある。そういうのを抜きにしても離れてしまうのがある。離れたくないし離れることはないだろうと思っていても自然と離れていく。そう思い込んでいただけ、みたいな感じ。

   

「ああ、なんだそんなもんか」と寂しくも悲しくもなる。そういうときには「離れるということは、そういうこと」と割り切ることだって大切らしい。去る者は追わず来る者は拒まずっていうやつ。流れに身を任せるっていうやつ。どれも誰かに言われた言葉だけど、理解はできても納得するのは、私には、まだできない。

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感情なんてなくなれば、うんと楽になるだろうし「去る者は追わず来る者は拒まず」みたいなのが何も考えずにサクッと簡単にできるだろうなと思う。それか自分の感情をコントロールできたら最強だろうなって思う。相手の感情抜きにして自分がどう思うか、それでどう動くのか伝えていくのかが大事だと思っていけど、それだけじゃ何もうまくいかない。うまくいかなかった。

      

気づいたら冷めてしまっていたミルクティーと同じように、気付いたら関係が崩れいた。気付くのが遅ければ、もとに戻しにくい。色々考えているうちに動けない状況を自分で作り出してしまう。そうなってしまったからには仕方ないと、そのまま放置してもいいのだろうけど、できない。だけど自分でこの状況になることを選んだんだと客観視すると結果何もできずに放置することになる。

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相手には相手の考えることがあって、それを全て無視して関係を築いていくのは出来ないのかもしれない。友達も、恋愛も、家族も、全部全部全部。相手あっての自分なのに、自分あっての相手とは決して言えない関係だった。与えられっぱなしで頼りっぱなしでっていう私の甘えの連続。現状を変えないのは現状を変えた時が怖いから。手放す勇気が持てないから。

            

言葉に出来ない時は叫べばいいし、声にならない時はもがけばいいし、自分で自分を苦しめる必要なんてない。でも、ふとした時にグルグル考えてしまうから止まらない。みたいなことを昔の日記から見つけた時は「何も変わってないんだろうな」と思った。変わりたい変わりたいと思っていても変わったと思えるのはいつになるんだろう。自分の甘えが露呈する。

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「思っていたよりも自分が、ちっぽけで惨めだ」なんて思うことはざらにあるし、全然強くなれなくて「ビーストロンガー」とか言い聞かせる。でもなかなか強くなれない。いや、強くなれないんじゃなくて強くなろうとしていない自分。変わらないと変わらないとって思っても変わってる気がしなくて「ああ自分って弱っちい」ってなる。今に始まったことじゃないけれど。寝て起きたら全部ゼロからスタートだってくらいに割り切れると最強だろうな~~。

    

自分の言葉や行動は、自分で選んでいるということを忘れちゃいけない。あとで後悔するかもしれないけれど、それでいいと自分が自分で決めたならそのまま進むしかない。どっちがいいとか悪いとか、そんな判定みたいなことなんてどうでもよくて、後悔するしないは今分かることじゃない。し、今決めることでもない。でも、どうしたらいいかわからないっていうのが頭の中に付きまとう。

    

自分の行動や発言によって起きてしまう状況が苦しくて怖い。シンプルに動けなくなる。考えすぎなのか、考えたりないのか。わかんないわかんないわかんない。

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いつもそばにいたいってなった話

‪大切って字に使われている「切」には「せまる」「さしせまる」って意味があって、となると「大切」は「とても、せまる」という意味になる。「いつもそばにいる」「ぴったりと身に付ける」ということから「だいじにする」の意味になったらしい。‬

      

‪豆知識披露〜!とかそういうのではなくて、これを知ったときに図々しいけれど自分にとって大事な人のそばにいつも居ることが出来たらいいなと思った。そしたら「いつでも頼れ」の最大効果を期待できるんだろうな〜って。四六時中一緒にいるのも、まあ極端な話ではあるけれど。‬

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‪苦しい時って、なかなか人に頼ることが出来ない。苦しいと感じていたタイミングで、近くに頼れる人がいるとかしない限りは頼れない。頼ろうとしていないだけかもしれないけれど。‬

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これまでの私は、誰にも頼れないって嘆くタイミングで「頼れ」と言ってくれる存在がいて、その度に救われてきた。あの人がいたから今の自分がいると思える瞬間が何度もある。

     

‪泣きながら本音で話して、ぶつかって、苦しんで、ああやっぱり大好きだなと繰り返して。私はいつも助けてもらってばっかりで、一人では何も出来ない。今度は、大切な人がキツイ時に頼りたいと思ってくれるような存在で在りたい。

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‪何かが出来る訳では無いけど、何かを出来るようになりたいって思ってる。まだまだ、ちっぽけで未熟者で「お前なんかに、何が出来るんだ」と言われたら何も出来ないと答えるしかない。開き直りかもしれないけれど自分に何ができるかすら分かっていない。だけど同時に何か少しくらいは出来るかもしれないと自分に淡い期待を抱きつつ、向き合おうとする。‬そうしてきた。

      
‪正解は無くても、ああした方が良かったよとか、こうしたから苦しかったよとか。キツイ時はどういうときだろうから、ちゃんと湯船に浸かって布団に包まって全力で休めよって言える。優しさも厳しさも、自分なりに伝えようと出来る。‬

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‪小学生の頃に「何でも話を聞きます」と掲げて全く知らない人でも救えたらと自分の力を過信して相談屋をしたことがある。「片思いの相手に気持ちを伝えられない」とかそういう相談が来るかと思っていたら全く違った。知らない病気の悩みだった。何も力になることが言えなくて無力さばかりが露呈した。‬

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その時に‪経験していなければ力になれないことを痛感した。これまで経験したことがあれば、実体験をもとに何かしらの言葉を紡ぐことが出来た。全てを知らないからこそ言える言葉があるのかもしれないし、知らない事があるのは当たり前かもしれない。でも、でも、と納得していない自分がいる。

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‪「理解出来るわけがない。」とか「分かったような口を聞くな。」と思うかもしれない。突き放されるかもしれない。何も知らない人に知ったような口を叩かれると「お前なんかに何が分かる」と憤怒したくなるのもわかる。‬

    

こういう時に仮に私がスーパーマンだったら「何でも言ってみな。ぜーんぶ解決するぞ。任せろ。」ぐらいは言えるのかもしれない。とかあり得ない事を考えながら、現実と比べて落胆する。ないものねだり。

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私は変わらず私で、どんなに嘆いたとしてもやっぱり出来ることは限られている。何も出来ないときすらある。寧ろそれが、ほとんどかもしれない。

     

でも、だからといって現実をすんなり受け入れられるほど大人では無くて、往生際が悪い。悔しいけど、物凄くよわっちい。きっとこれは自己満足の世界で、そういう世界ですら満足出来ない自分の世界を作り上げていて、最後に「結局何がしたかったんだろう」ってなる。

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経験しないと理解できなかったり否定的に見てしまう人って多いと思う。聞かないのは聞けない、聞きたくない、聞く勇気がないからなのか。自分の中でも分からなくなる。分からないなりに、知りたいと思うのは苦しめることになるかもしれない。経験が浅い私には、そうすることしかできないのかな、とも思う。

    

別に経験することが全てとは言わないけど、経験値って大きい。言葉に重みがある。学びがあるかどうかでも、変わるんだろうな。考えることも大切だけど、考えるだけじゃ何も変わらない。動かずにはいられない、そんな風に出来るかどうかが重要な気がする。

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全ての気持ちを理解するなんてことは出来ないのかもしれない。だけど全部を受け入れられるくらいの力量が欲しい。まだまだ成長過程、まだまだ経験するフェーズなんだろうなって改めて。

  

そう考えると色んな人からママとか呼ばれている人って凄いよな。そういう人になりたいな。誰もが相談に来たくなるような存在。まだ力不足だ。

  

  

2016/12/17